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笹村 出-自給農業の記録-

ボーとして絵を描いている

   

絵を描くとき、何を描くのかまで考えないで居ることにしている。筆を持って、絵の具を付けてまだ何を描くかを考えない。できるだけボーとした状態で、腕に任せて、手に任せて始めてしまう。表れた絵の具に反応して次の調子を付けて行く。ある程度画面が埋まると、徐々に描くものが定まってくる。

何かを描くという意識を捨てた状態で、海の絵になり、山の絵になり、草の絵になる。当然海の絵を描いていたら、いつの間にか草の絵に成ることもある。何を描くのかと言うことは、ボーとして描いているのだから、よく分からないまま絵が進んで行くのをよしとしている。

そのままいつの間にか寝ていることもよくある。目が覚めて思いついてまた描き進める。気がついたことは、良くなろうが悪くなろうがともかくやってみる。取り返しが付かないようなこともよくしてしまうのだが、それもまたよしで、そこからで直すことになる。ダメになると言うことは良くなるためには必要なことなのだ。

何故このようなボーとしたまま絵を描く方角を目指しているかと言えば、無念無想で絵を描きたいと言うことにある。無念無想であることで、脳というような思考器官から解放されて、絵が自分という根底から立ち現れてくるという状態を目指しているからである。それが「私絵画」である。

無念無想などと言うとかなり難しいことになるから、半眠り状態で絵を描くということにしている。だからいつの間にか寝ているのだ。ボーとして心拍数は50ぐらいまで落とした状態で絵を描く。「ボーとして」では曖昧すぎる。半眠りも意味不明。無念無想と言う言葉なるとさらに難しい。

絵というものに没頭していて、何を描いているのかも忘れた状態で絵を描いている。絵を描いているときに何を描いているのかを意識しているのかと言えば、この線が良いか。この色は適切か。この調子で良いのか。画面全体と細部の調和は崩れていないか。などと絵に現わされている事物の意味はほとんど考えて居ない。

絵を描いているときには、確かに花を描いているのに、花であることを意識しないで描いている。花びらを今描いているではなく、この赤を動画面に入れられるかと思って描いている。いつの間にか花で無くなることもままある。絵を描いているという意識はある。

絵を描くとは自分の世界が画面に立ち現れるかどうかだから、描いている物の意味は重視しても始まらない。長く絵を描いている内に、絵を描いている状態が結果的にこうなっていた。わざわざそういう状態に持って行こうとした結果では無い。絵を描くことに夢中になっている内にそんな感じになっていたわけだ。

そういう状態で描いている内に、どうもその方が良い結果になると、感じるようになったと言うことなのだろう。この良くなったというのも確かな物なのかどうか、良いと思ったら、それを否定しなければ前に進めないと考えて居る。ここらあたりがやっかいなところが私絵画の道である。

絵は具体的に「海と言う意味」は正面の問題では無い。見る人の問題であり、描く私には海の言う意味よりも、海を描いているとされる画面の全体の状態に反応することが重要になっている。だから海が空に変わったとしても、何の問題もない。自分の画面になるようにと、あれこれ試行錯誤を続けている。大抵はそれで行き詰まるので、困っている。

この先どうしたら良いかと、途方に暮れていると言える。浮かんでは消える思いつきを当てもなくやってみている。何か決まった手段があるわけでは無く、そのときに思いつくことすべてをやってみる。そのうち偶然はまるときがある。驚くべき解決が訪れると言うことだ。

そうはいっても、どうやったのかもよく分からない。また分かろうとも思わない。嘘だろうと思われるかもしれないが、もう一度やれと言われても、よく分からない。アメンを見て手順の解明はある程度出来るのだが、それをもう一度使おうみたいなことは無いから、すぐに忘れるようにしている。

つまり、手順で絵を描いたところで無意味だと思っている。良い手順を発見して、それを自分の絵の技法として、自分の絵を描く。このような絵の描き方は、最悪の書き方だと思っている。それは装飾画を描く作業法である。私絵画では、自分の絞り出し方が問題なのだ。

手順として絵を描くやり口のような物が出来たときに、自分の絵が遠のいて行くことになる。出来の良い絵を目指しているわけでは無い。出来などどうでもいいのだ。自分であることだけが重要である。自分から絵が遠のいて行くことは極力避けなくては成らない。

そこで自分に近づく方法が、「ボーとなる」ことがいまのところ一番なのだ。ボーとして絵を描いているから、どこか自由になっている。小賢しい脳の働きが抑えられている。ああすれば良いとか、こうしたら良いというよなことが薄れる。ただ画面に対しての反応に自分がなっている。

それがボーとしているときの状態なのだと思う。絵を描く修行はボーとなる修行である。実に半眠りの楽修行であるが、よく考えてみると怖い、厳しい修行でもある。たいていの場合、ボーとしている老人は惚け老人である。紙一重状態である。刃渡り状態で重心がずれれば死んでしまうという中で、ボーとできるのかである。

脳を解放した状態に置かなければ、より深い自己には届かない。自分の未知の可能性が開かれなければ自分の成長は無い。自分が出来ないのであれば、私絵画を描く意味が無い。自分という物を否定した先にしか、新しい自己という物は無い。その自己を尋ねる雲水修行なのだ。

こんな風に書けば偉そうになるが、ただボーとして絵を描いているだけである。ただの惚け老人と変わらない。ボーとを何十年も重ねている間に、絵を描く気持ちが変わったのだと思う。修行は続けてみなければ何も見えてこない物のようだ。ボーとして絵を描いているだけなのに、その喜びは以前とは違う。

いくらかの充実を感じて、少しずつ「これでいいじゃん。」と言う気になっている。このままで良いじゃん。という感じだ。まだまだ時間はかかりそうだが、こんな調子で、続けようと思う。絵を描くほど面白いことは無い。毎日描きたくて仕方が無い。好きなことをやりたいだけ出来ると言うことなのだから、行き着けるところまで進んでみたい。

今回は描き出しから、写真を撮ってみた。ボーとしていたのだから、途中眠っていたりした。写真を撮るのが旨く出来なかったり、忘れていたりで、中途半端であるが、いくらか描いている様子が分かる。最初は何を描くか分からないまま描いている。描いて30分ぐらい経ったところである。まだ何を描くかどころでは無い。

良い調子を求めて、徐々に色を置いている。その後は、適当に気がついたら写した。最後は「カンビ-レの滝」になった。途中までは草の海のつもりだったのに、何故か西表で描いた絵になっていった。忘れられない神々の集まる場所が引き出されてきた。不思議なことだ。まだこの後どうなるかは分からない。

これが私の一日のことになる。農作業を特にやらなければ、アトリエカーからほとんど出ないで、絵を描いている。半分ボーとして寝ているような物だ。威張れるような状態では無いが、一応日々の一枚である。只管打画である。あと20年続けば何とかもう少し増しになるだろう。

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