山火事の増加

   



 山林火災が連続的に4件起きている。大船渡市に始まり、今治市 、岡山市、宮崎市、と4つもの山火事が続いた。一週間経過して今治が最後に鎮火が宣言がされた。極端な乾燥と春先の強風が広がった原因。いよいよ異常気象が深刻化している。同時に中山間地が放棄され、山林の手入れがされなくなっていることが想像される。

 カリフォルニアで起きた山林火災では多くの住宅が巻き込まれ、24名が死亡した。 韓国でもさらに深刻な山林火災となり、30名もの死者が出ている。対岸の火事ではなくなった。韓国各地の43カ所で同時多発的に山火事が発生した。14日以降いまだに鎮火していない。

 火をもって火を制するではないが、大山隠岐国立公園の三瓶山西の原で25日、春の風物詩となっている火入れがあった。山火事や森林化を防いで生物多様性を守るため、冬枯れした草原約33ヘクタールを焼き払った。山をあえて焼いてしまうことで、燃えやすいものを失くす山焼きである。

  地域の山焼きなどの山林管理はされなくなってきている。山を燃やすことは良くないことだという環境原理主義者の主張もある。観光行事として、数か所残るばかりである。そうして誰も手入れをしない日本の70%もある山林は、火事が起こりかねない。水源の機能も低下している。一度山林火災が始まると止めることはできなくなっている。

 林業経営が難しくなった。林業経済が回らないのだから、中山間地に人がいなくなる。里地里山の暮らしが失われた。この山まつわる日本がなくなったことほど、大きな損失はないだろう。手入れをすることで維持されてきた、日本の環境は急速に悪化している。これはある意味新たな自然崩壊が始まったことになる。

 落ち葉かきの集落の行事もなくなった。境川村の向昌院では暮れには山の中腹から、大勢の13隣保 (組)の衆が横一列になり、一日かけて向昌院の山際の畑まで、落ち葉を掃き下ろしてくる。これが、10mもの高さの山になる。そこにコイ溜めから糞尿を担ぎ出してかける。

 何度か落ち葉の山を移動し攪拌し、堆肥にする。それが向昌院の野菜作りの肥料すべてであった。化学肥料は金肥と呼ばれ簡単には使えるものではなかった。落ち葉かきで山全体が掃き清められたような状態になるから、山火事の危険もかなり軽減する。もう地域の落ち葉かきの行事はどこにもないだろう。体験が記憶にある人も少ないだろう。

 里地里山の暮らしは、地域の安全管理も含んでいたのだ。防火のための生け垣で家を取り囲んだ。鎮守の森の銀杏は防火対策の樹木だ。イチョウは水を含んでいて燃えない。常緑樹を山からの吹き下ろしの風を防ぐために山側に植えたが、椿などを植えて、実から油をとると同時に、防火林とした。

 山の手入れは収入になるわけではないが、里山全体の管理を兼ねているのが、昔の山間の部落の暮らしであった。災害から地域を守ることが、美しい里山地域を作ることでもあった。中山間地の消滅の前に、すでに中山間地では里山を守る機能を担った、里山集落の力が失われてしまった。

 中山間地の暮らしが失われたことが、山火事多発の原因の一つの気がする。日本の里地里山を守る機能を、山間部の集落に義務化する必要がある。そうした中山間地で暮らす人たちは、その土地での暮らしが国土を守るためであり、その対価を国は補助する必要がある。

 特に中山間地の水田の維持はダム機能、水利機能と見なす必要がある。人口ダムの水量の70%の水が田んぼダムにあると言われている。さらに70%ある山林の貯水量はその数倍あるとされる。日本人の古くからの暮らしが地域を守っていた。

 その中山間地の暮らしを支えなければ、日本の美しい自然は維持されてこなかったはずだ。そこには山に暮らす人たちの、美しいご先祖様から受け継いだ郷土を守る心がこもっていた。もう一度、国土を守るために、中山間地に人に住んでもらわなければならない。

 中山間地に人を戻すことは、手を打たない限り、不可能である。このまま中山間地で国土を守る暮らしをする人たちに対する、国の評価がなければ、中山間地は人の住まない場所になる。山林は荒れて、火災を繰り返すことになるだろう。それが日本の国土の70%を占める中山間地の問題になる。

 中山間地に暮らす人たちが、ご先祖様から受け継いだものを守ってくれていたことへの、感謝を社会が忘れてしまったのだ。経済だけで動く社会が、社会の根底で見返りなど求めず、支えてくれていた人たちを、ないがしろにした結果なのだろう。中山間地の意味の見なおしが必要である。

 中山間地に暮らす人たちが、そこに暮らして行ける条件を国が作り出さなければ無理だ。例えば、中山間地の水田に対する手厚い支援。里地里山林業に対する全面的な支援。害獣対策に対する仕組みの構築。生活維持のための教育、医療、商店の確保。

 経済競争だけの社会になり、見えない形で日本を保全されてきた仕組みを見失ったのだろう。昔の暮らしでは、自然に対する手入れを、見守ってくれているご先祖様に対する、当然の義務押して行っていた。木の枝一つ、石ころ一つをを置き直すことが地域を守った。

 ささやかだが、絶え間なく繰り返えされた手入れが、日本の自然を守っていた。それは自然に対する畏敬の念が心の底にあった。自然への感謝。その場に暮らしをさせていただいて居る気持。無償の志が守ってきた日本の国土。無償であるから、それを忘れてしまった理不尽な社会。

 日本が再生されてゆくためには、中山間地に自給生活を根付かせる以外にない。資本主義の競争社会から距離を置きたい人はいる。距離を置いて、自分の暮らしを見つけたい人はいる。そうした人たちに暮らす場を確保するのが、国の役割ではないだろうか。

 地域指定をして、暮らせる最低限の条件を整える。国土保全を担ってもらう代わりに、対価を国が払う。つまりそこで生活をしてくれれば、国が自給生活者の最低限生きていける保証をする。生活保護程度の費用を、里地里山の手入れのお礼として渡してゆく。

 中山間地の保全の役割を誇りをもって担える社会にする。それは生き方であって、自由な選択に基づくものだ。3%の人はそうした暮らしを望んでいるはずだ。まだ日本人の中にもそういう人はいる。300万人いるということになる。3万か所に10人づつは暮らせる。

 まだ間に合う。日本が舵の方角が変われば、日本列島という恵まれた土地で豊かな暮らしを、もう一度作り出せる。豊かさの意味を考え直すことだ。トランプの豊かさと、縄文人や弥生人の豊かさは違うだけだ。生きるという深さを考えれば、物質的な豊かさなど問題にする必要はない。



 

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