お米が高いなら、作れば良い。
2025/04/24

お米が高いと言われている。備蓄米がスーパーに並んだが、10キロ7000円は超えている。まだ高いのか、適正価格なのか。2つの考えがある。小さな農家の生産費からいえば、適正価格と言える価格だろう。しかし、大規模農家にはかなり儲かる価格である。
政府は小さい農家を残す方針できた。それは正しい考えなのだが、方法を減反奨励金を使ったため、稲作農家の生き残りにおかしなことが起きた。農家は減少して、大型農家が増加する。これは方角としてはいいのだが、商品流通としては不自然な商品になってしまった。
そのために、生産費と補助金と、故郷の地域を残したいという思いと、コメづくりが好きだ、農業以外はできないという人。そういう様々な思いと条件が、生き残っている小さな稲作農家を、混沌の中に追い込んでいる。米を作っている私にはその気持ちが少しは分かる。作らないもののコメ価格評論はその観点が抜けえいる。
作っていない人には、イネづくりをする人の気持ちが、見えない。それなら自分で作ってから、考えて見れれば良いではないか。毎日1時間働けばお米は出来る。お米だけではなく、食べ物はすべて確保できる。それが自給食料にかかる時間だ。ただし、一人でやろうとしたら、毎日2時間かかることになる。
みんなでやる自給であれば、一日一時間で可能なのだ。その自給のための技術を、あしがら農の会で探求した。そして、場所を石垣島に変えて、実現に向けて日々楽しく暮らしている。小田原と石垣島とは違うが、それぞれの環境に合わせた自給のためには、違う農業技術が必要なようだ。
ではどのくらいの面積があれば、食糧自給は可能なのか。100坪である。みんなの自給ならば100坪である。4人家族であれば、300坪ぐらいになるのだろう。鶏は飼ったほうが良い。卵と鶏肉を食べることができる。野菜は庭先で作るのが良い。
鶏小屋が、堆肥小屋になる。40代の元気満々の頃に、丹沢の高松山の山麓で15年くらい実践して確かめたことだ。自給自足など、あり得ないとよく言われるのだが、嘘だと思うなら、今も石垣島の「のぼたん農園」で挑戦しているので、是非見に来てほしい。
自給農業は出来る人と出来ない人がいる。観察する能力と、根気の問題なのだろうが、自然との関わりの乏しい人には出来ない。資本主義の人にもできない。出来ない人は出来る人のまねをすれば出来る。体力の問題ではない。普通の人の平均的な体力があれば、まず大丈夫だろう。
お金はどれくらいかかるかと言えば、10キロ1000円ぐらいだ。卵だけで言えば、1個10円くらいだろう。ただし、このレベルまで進むことが出来る人は限られているだろう。卵10円で安いと思うかもしれないが、労賃からすべてを計算してみると、230円になる。
鶏小屋だって作らなければならないし、ひよこのふ化もしなければならない。そういうことをすべて楽しみとして出来る人でなければ、多分苦しくなって挫折することだろう。鶏が好きで、飼っていれば満足というような人がやることだろう。でも生きるってそういうことだ。
自給農業には労賃がない。労賃を入れるとすれば、10キロのお米は1万円でも売る気にはなれない。毎日、毎日田んぼを見ているのだから、月に10万円としても、50万円にはなるだろう。それで500キロならば、10キロ1万円になる。
ところが労賃がないどころか、お金にならなくてもやりたいというぐらい、イネづくりは面白いのだ。生きるというのはそういう、好きなことをやりきるということではないだろうか。資本主義は肉体労働を価値と考え計算するから、ロボットと人間を天秤にかけるようなつまらないことになる。
田んぼも畑も同じことで、いやいややる人に出来ることではない。そういう人は1キロ1000円のお米を買って食べるしかない。自給農業は工夫の連続であるし、発見の毎日である。毎日眼を開く喜びがある。発見した曲がったハウスパイプの伸ばし方を、今も自慢にして吹聴している。
自慢したくなるぐらい、見つけたときはうれしかったのだ。先日もみんなで福仲先生のとってある曲線のパイプをもらいに行った。240㎝を150本貰ってきた。みんなでやったので実に充実した作業だった。誰もが自給のために自主的にやっている仕事である。1本のパイプのためにずいぶんの時間を費やしたが、ここが生きる時間の充実である。
これが仕事で、1本の延ばすと100円とかだったら、馬鹿馬鹿しくてすぐ嫌になる。所がこのパイプ延ばしが自分が食べるお米のためだと思うと、楽しくなってくる。おかしいのかもしれないが、捨てられたもう使われない錆びたパイプを、再生することを大切だと思えるようになる。
買えば済むことである。労賃まで入れればむしろ高くつくことだってあるだろう。しかし、捨てられかかったものを生かすことが出来る、ものを大切に工夫して生かす喜びだ。汚いと行っていやがる人もいるだろうが、やっているうちにその少し曲がった寂びたパイプがより美しく見えるようになる。
お米を作ることほど面白ことはない。多分稲作の研究者の数は他の農業分野より多いはずだ。日本の稲作研究は世界のトップクラスであった。現状は低迷気味。稲のすべての栽培種の基となる野生種の生息場所を特定したののは、日本人の女性研究者である。この研究は、私にはノーベル賞に値する。
そうした何千人の優秀な研究者と比べても、石垣島で田んぼを実践する私の方が見えていることもある。自慢である。何しろ私は年がら年中田んぼを観察している。そして栽培の工夫をしている。絵を描いて居る眼がある。稲の形を見て、稲の色を見て、どう判断するかにはそれなりに自信がある。
特に自給農業としての稲作の技術については自信がある。まだ石垣島では到達していないが、必ずやり遂げ確立するつもりだ。自給農業は命がけの実践である。取れなければ食べないという覚悟でなければ面白くない。採れないでも良いなどというアマチョロイ自給農業はない。
結果が明白だ。山北で自給農業に挑戦したときに、シャベルの人力で、5年間で実現するという条件で田んぼ作りから始めた。それが出来なければ千日回峰行と同じ決死の覚悟をして挑戦した。だからその日々ほど充実して愉快なことはなかった。
今も同じである。のぼたん農園の冒険を10年間で実現することが夢である。今4年目である。この冒険は山北の時とは違う楽しさがある。山北の時は体力が有り余るほどあった。体力仕事を連日続けることが出来た。今はあと何年動けるかという中での終わりのある冒険である。
生きているうちになんとしても、自給農園の実現である。のぼたん農園は少しづつ美しい場所になっている。最後にはのぼたん楽園になるはずだ。一年3回収穫のあるひこばえ稲作である。自給肥料のアカウキクサ農法である。水牛を使う伝統農法である。そして100坪の自給である。
お米が高いという人は是非ともお米の自給に挑戦してみてほしい。1キロ100円で可能だ。労賃とか、商品価値とかが身体で分かるだろう。石垣島で一緒に挑戦出来る。小田原なら農の会で可能だ。いつでものぼたん農園にいるので、尋ねてきてください。現在38名の仲間と爽快な冒険を続けている。