絵は色彩の組み合わせで出来ている。

   



 色彩が美しいというのは色と色の関係が美しということだ。ある黄色が美しいというような意味での色彩と絵画での色彩は意味がつがう。画面での色の関係により出現する世界が絵画である。絵画としての色彩の美しさと言うことになる。

 美しいという言葉で書き始めたが、美しいという言葉も、一般論としての美しいという意味と絵画としての美しいは少し違うと言うことがある。絵を描くと言うことは、美しさに向かっているわけではない。自分の哲学を画面上に露わそうとしている。

 それぞれの哲学、あるいは世界観を画面上に表現しているのだから、美しいという側面がある人もいれば、醜いという者を表現する人もいるということになる。美しいという世界の捉え方をする人が多いいと言うことは言えるので、絵画が一般的に美術という言葉の枠に入れられる。

 私の場合は、美しいと極めて近いような調和というようなものを画面では探っている事が多い。調和はと言ってこれも一般論の調和という言葉に置き換えてしまうと、絵画での調和は又違うと言うほかない。一般の言葉での調和は安定と言う意味を含んでいるが、絵画での調和は緊張が高まり、限界に達したような調和である。

 調和という中に、飽和というような意味を含んでいる。それは具体的に説明すれば、画面上で色彩の組み合わせが調和すると言うことなのだが、それは風景であっても、人間を描いても、花を描いていたとしても、その意味では違いはない。

 何を描くかと言うことは最も重要なことであるはずなのだが、そのことを意識しないで絵を描いていることになる。だから鳥を描いていたはずがいつの間にか花の絵になったり、海の絵になったりすることは良くある事なのだが、別段そのことは気にならない。

 もちろんその絵が抽象画になったとしても差し支えないのだが、抽象画に見えると言うことはあるが、具体的な意味は常にある。海だか、草原だか、空なのか。揺れ動きながらも、結果的には何か具体的な記憶の中の風景を描いていると言うことになることが多い。

 描きながらずいぶん変わって行く。絵が上下、縦横が変わることもある。画面上の具体的な意味とかけ離れて絵を描いていると言うことになる。宗教画を描く人が、聖母子像を描いていて、いつの間にかリンゴの静物画になったらおかしいのだろうが、私はそれでいいと思っている。

 画面の図像としての意味はほとんど考えていない描き方である。しかし、絵を見るという意味では図の中にある意味がまず大きい。当然のことだと思う。空の絵としてみることで、画面に表現されている色や調子への理解が限定されている。

 もしそれが炎を描いていると見えるように描かれていれば、意味の理解という所から、違う内容を読み取るはずだ。者の意味が重要であるという理解はしているのだが、今のところ描いているときにそのことを整理し、意識できないでいる。

 絵を描くと言うことはその絵で社会に表現をしている。だから、見る人にどう見えるかと言うことは重要な要素だとは理解している。しかし、描く上でそのことを意識して、無理にはめ込むことは予想と思っている。自分というモノの絵画世界に入り込んで行くためには、どうもその結論は先延ばしにしておいた法が、間違えないような気がしている。

 色彩はその調子でかなり違う。マチスの色彩を見ると、色の調子を排除している絵が多い。調子を色彩の中に入れると、余りに複雑化してしまい、論理的な整理が難しくなる。しかし、色から調子を外すことは私の絵画ではあり得ないことになる。

 色彩というモノに透明の度合いや、にじみや、変化して行く要素が大きく存在する。マチスが書いているように1c㎡平方の黄色より1㎡の黄色の方がより黄色である。というようないみで、透明の黄色より、マットの黄色の方がより黄色である。

 いわば墨絵が黒の濃淡だけで絵を描くように、色というモノはすてて、黒の濃淡の調子だけに限定することで表現を絞っている。私は各色の濃淡を含んだ色の調和が重要な表現になっている。マットな黄色とにじんだアカの組み合わせは必要な表現なのだ。

 そのために水彩画を描いていると言うことが言える。水彩絵の具は墨のように各色が多様な濃度で描くことが出来る。マチスのような論理性を重要視する人であれば、煩わしい要素を加えないで、絞り込むことで明確化したのだろうが、その煩わしい複雑系を取り込むことで、自分の世界観に近づくと考えている。

 ついでに書いておくと墨絵で色を感じるという文章を読んだことがあるが、たぶん目がおかしいのだと思う。墨絵はどう描こうと墨の単色である。単色の世界に色を感じるというような思い入れは絵に入らない。色を感じたいのであれば、色を使えば良いだけのことだ。

 絵には何か精神論のような思い入れは排除しなければならない。絵は科学の一つの方法であり、自分の世界をより正確に表現しようとしているものだ。東洋では書道というように字を書くことを人間の道にしようとする。絵も画道にしたがる流れがある。

 確かに絵を描くことは人間の生きる道ではあるが、どこまでも科学的に考えなければ、えせ宗教のエセの道になってしまう。絵に尾ひれはいらない。絵は画面に見える結果だけのモノだ。その結果に向かう、自分の生き方は道であるかも知れないが、そんなことは絵を見る他人にはどうでも良いことになる。

 熊谷守一氏が仙人と呼ばれ、その生き方は一日中ありと向かい合う画仙人のようであった。しかし、問題はすべてを取り除いた絵だけ見なければ間違う。物語はできるだけ取り除かなければ、目が曇る。時間というモノはそういう物語を消し去って曇りを取り除いてくれる。

 水彩画はあらゆる色を水墨のように使う手法である。だからその技法は複雑で、一筋縄では行かない。これほど難しい絵画技法はないのだと思う。そのために、入口で留まることになりかねない。水彩画は今考えられている物よりも、はるかに奥深い世界が存在する。

 まだ水彩画はその画法を十分には切り開かれていない。入口が十分魅力があるので、そこで留まり水彩画が済まされている。しかし、こんご100年もすれば、油彩画よりも表現幅が広い、自由で可能性が無限の画法であると言うことが認識されるはずだ。

 水彩画は色彩の複雑表現に対応した画法である。中川一政の岩彩画がその可能性に近づいていると思う。田だし、強い表現にこだわっていたために、弱い表現を必要とせず、水彩画の魅力に踏み込まなかったのではないだろうか。

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