少子化論

   



 少子化は人間が生き残るために必要なことである。一般に少子化論というと、どうやって少子化を脱するかという話になる。それは明らかな間違いである。少子化を人間知恵と考えて、同賞しか社会を作り上げるかという本来の少子化論である。

 世界の人口が今よりも3分の1ぐらいに減少すれば、温暖化も解決するし、戦争は起こらなくなる。それはたかだか100年前の世界に戻れば良いという話なのだ。この人口の急速な増加に人間は追いつけなくなり、おかしな競争を始めた。

 動物は異常繁殖すると、おかしくなる。増えると言うこと自体で生き物は危機を感じるモノがいる。人間も余りの密には耐えかねない。世界の人口が増加して行くために、世界では不必要な争いが起こっている。日本の人口が江戸時代ぐらいまで減れば、日本ももう少しまともな国に戻るだろう。

 資本主義経済と言う考え方は、人間を労働力という価値で評価を加える。だから人口が多ければそれだけ生産性が上がると言うことになり、競争に勝利するという考えである。その資本主義は競争の原理は限界に達し、様々なところで軋轢が生じ始めている。

 どのようなきれい事を並べようが、政府というか、選挙で選ばれて国の運営を考える人は、そんな考えに陥る。よその国勝るためには人口を増やそう。そうしなければ選挙で落ちる。経済を上手く回すには若い労働人口を増やす以外にないだろうなど、とんでもないことを考え始める。

 その結果地球は温暖化が起こり、マイクロプラスティクの海洋汚染は留まることがない。すでに地球環境は瀕死の状態まで悪化している。地球で問題なことは人類という生き物が増加しすぎたことが諸悪の根源である。だから少子化は目指さなければならない方向なのだ。

 人を出し抜き、競争に勝たなければ良い暮らしが出来ないと思い込んでいる人が増え始めている。少子化した国は滅びるとまで言い切る人まで出てきた。それは資本主義の競争の原理を大前提としているからだ。競争に勝つためには労働力が多くあれば有利だからと考えているからに過ぎない。

 映画監督だった羽生進氏が言っていたのだが、都会ではお前が居なくなれば、みんなにとって有り難い。人間が人のためになるどころか、居ることですでに迷惑をかけている。どうすれば自分の存在が人のためになれるのかについて若い頃自問したと言われていた。

 確かに電車が混んでいるのも、大学入試が地獄だとまで言われるのは人が多すぎるからだった。人間が人間らしく生きる許容量を都会では超えた。中学生の私はそう思ったものだ。都会で暮らすと言うことは人間性をかなり損ないながらと言うことになる。損なっていることすら感じなくなるのだが。

 縄文時代の日本列島では滅多に人に会わないぐらいの人口密度だったようだ。日本列島全体で2万人から26万人の人口が気候変動の中で前後した。その数で充分に日本の縄文文化を形成したのだ。充分活立派な人達だと思う。

 石垣島ぐらいの人口が日本列島各所に散らばれば、ほとんど人の痕跡に出会うことすらなかっただろう。それでも滅びるどころか縄文人はたくましく生きていたのだ。そう日本最古の骨が出土した石垣島だって幾人かの人が暮らしていたはずだ。

 自然の営みの中に人間の暮らしが織り込まれている。本来それが一番永続性のある暮らし方である。そこまでは望むべきもないが、せめて現状よりも人が増えないことを良しとするのは当然のことである。まして今の人口の年寄への偏りなど、一時の問題に過ぎない。

 少子化を考えるときに必ず問題にされるのが、国際競争力である。戦時中には「産めよ増やせよ」の標語があった。戦争に勝つためには人口が増えなければならないと言うことだろう。それが今の時代は、労働人口が国際競争力の要になるから、企業は産めよ増やせよと言いたいのだろう。自己本位の間違った考え方だ。

 台湾は国際競争力が世界で7位だそうだ。日本は34位。台湾は日本の人口で言えば、5分の1しかない。2353万人で九州の諸島部を抜いたぐらいの面積。
国際競争力の世界の順位は(1)デンマーク、(2)スイス、(3)シンガポール、(4)スウェーデン、(5)香港、(6)オランダ、(7)台湾、(8)フィンランド、(9)ノルウェー、 10位でやっとアメリカ。

 大きい国にはそもそも国際競争力などないのだ。台湾の2353万人がむしろ多いぐらいだ。日本が競争力で転げ落ちているのは少子化とは関係がない。ここに並んだ小さな国は人口減少している国が多い。台湾はやはり世界トップレベルの少子化国の一つ。

 日本が少子化さえ解決できれば、国際競争率が上がるなどと思うのは大きな間違いである。日本が競争から脱落したのは人口減少とは違うところに原因がある。一人一人の若い日本人の、教育と暮らしの在り方から国の衰えは来ていると考えた方が良い。

 団塊の世代までの日本人は農村出身者である。私の子供の頃は田んぼ休みが当たり前にあった。農作業は子供だってやらされて当たり前。児童労働が批判されるより、薪を担いで勉強している二宮尊徳がまだ奨励されていた。
無理をしたって頑張らなければ生きて行けない。それを子供の頃からやったとしても、悪い事などと誰も思わなかった。

 田んぼ社会で培った能力が工業化社会と結合したときに、日本は力を発揮したのだ。ところが、田んぼを止めた日本人というか、田んぼに伴う協働社会を止めたことで、日本人は変わったのだ。百姓力を失った日本人は国際競争力を失ったのだ。日本を武家社会と考えた明治維新の失敗である。武士など少数派だった。

 日本の高度成長期はブラック労働で国際競争力を得ていた。今はそういう力任せではどうにもならない競争になった。むしろ競争力の高い国ほど、ホワイト労働なのだ。国際競争の質が変わった。日本的な頑張り抜くような仕組みではないらしい。

 この変化に日本は対応が出来ないのだ。トヨタ自動車が今になっては唯一の日本の成功企業例であるが、電気自動車分野ではどうも対応が遅れている。中国が電気自動車時代を作りそうだ。トヨタ自動車でさえこの先だめに見えるのから、日本の産業は残念だとは思うが、今後世界から脱落して行く。

 少子化はそれこそ低迷社会では、結構な話になる気がする。一人当たりの農地面積が増加していく。一人当たりの水資源が増加して行く。一人当たりの二酸化炭素の排出が減って行く。ごみの量は減少する。食糧自給率は増加する。

 少子化をむしろ好機とととらえて、新しい社会の仕組みを見付ける必要がある。それにしても政府は少子化を食い止めるべき、様々な努力をしているらしい。子供の教育の無料化。保育士の給与の値上げ。子供の医療費無料化。当然のことだ。大いにやるべきだ。

 それでも少子化は止まらないはずだ。それは人間に備わった生き物としての本能的予感だからだ。


 

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