舟原のため池の工事

      2025/04/22

舟原のため池

舟原溜め池の工事を行った。コブシが咲いていて、舟原溜め池は静かに美しかった。小田原の家では、引っ越したとき植えたシデコブシが大木になって、見事に咲いていた。今年の冬は雨が極端に少なく、溜め池には水が全くない期間が長かった。

あれだけ乾けば、いなくなった水生昆虫も多いのではないかと思う。それでもカキツバタは芽を出していた。乾燥にも耐え、水が来て、すぐに芽を出してくれた。ありがたいものだ。もう一息で、上の溜め池は一面カキツバタになる。今度小田原に行ったときには、草刈りをしたいと思う。やらないかもしれない。

溜め池の工事は終わりがない。多分江戸時代の農村の構造物は直し続けると言うことが前提なのではないか。手入れの思想である。毎日わら一本落ちている場所を変えるようなささやかなことで、美しい状態の維持をして行く。里地里山の思想である。

この写真の下にU字溝がある。ここらあたりが水漏れをしている。何とか直さなければならない。中央の堤防も水漏れが続いている。いつになっても水漏れが直らない。どうすれば良いのだろうか。あれこれ考えるのだが、良い方法がいまだにわからない。

中央の太い塩ビ管がやはり良くないのではないだろうか。あれはとってしまう方が良いのではないか。そして中央の堤防を積み直すことだ。来年の冬の渇水期に一度上の溜め池の水を抜き、中央の溜め池の堤防を低くして積み直す。中央の堤防は3m幅にする。

鎮圧のローラーを何度も通して固める。泥の積み方は難しいが、積み直したら、強く圧をかけて固める。その中央の堤防からは、そのまま傾斜で行けに降りられるぐらいにする。そこからユンボで行けに降りて、泥を掘って、池のかい掘りもする。

 

4月も小田原で溜め池工事をする。25日から、水彩人春期展がある。その前後に小田原に行く。その間に溜め池工事をしようと考えている。28日が工事になるだろう。今回は道路の舗装である。コンクリートの下を水が流れ、空洞化してしまった。

コンクリートを壊し、空洞には壊したコンクリートを砕いて敷き詰めた。一ヶ月土が落ち着くかどうか見て、今回はコンクリートで埋めることにする。コンクリートミキサーを借りてきて、コンクリートを練りながら、8mほど舗装することになる。

工事は一日で終わるものとみている。工事の材料を搬入することが、大変な作業になる。それは渡部さんが引き受けてくれている。渡部さんがいなければ、もう舟原溜め池の工事は継続できなくなっている。

 

 

舟原溜め池の農業遺構としての意味

舟原溜め池が出来たのは江戸初期である。江戸幕府が日本全国に田んぼを増やし、生産を上げるための政策である。各藩が競争して水田開発を行った。舟原溜め池もその一環で作られたものだ。小田原も山の方から開発が進んだ。

一般に百姓は山の方に暮らしていた。里の方に暮らすのは武士や町民である。生産は街の周辺部で行われていた。山北でも丹沢のかなり奥でも江戸時代初期に炭焼きが行われていて、かなり苦労して田んぼが作られていた。

百姓には田んぼは出来ればやりたいもののだった。稲は他の作物よりも生産性が高かったのだ。水が気候の急変などにもある程度対応してくれる。草の出る量も畑に比べればかなり少ない。その上、同じ面積であれば、一番収量が多い作物になる。

江戸幕府は江戸周辺の新田開発を急いだ。食糧の安定供給こそ、都市開発の条件だからだ。江戸の街を建設するためには江戸の周囲に、薪炭のエネルギー供給地を作る必要と、食料生産地を作る必要があった。

小田原でも山際から新田開発が始まり、舟原には当時に越して住み始めた人が今でも数件ある。その小田原の新田開発は徐々に下流域に向かい、酒匂川周辺にまで及ぶことになる。尊徳の生まれた栢山は舟原の下流域になる。

舟原のため池は4つあったという。ここに水を貯めて、沢山水を必要とする代掻きの時に一気に久野川に流したのだ。溜め池以外でも水利トンネルや川を越す水路など、様々な工夫が行われていたが、今はほとんどが失われ、残るは溜め池だけになった。

 

百姓二宮尊徳は山師になり江戸へのエネルギー供給の入札を行い、資産をなし名をなして行く。江戸時代末期の武士は経済として社会を見る能力が衰退していたのだろう。この山はいくらになるとして入札する度胸と能力がなかった。

現代社会も暮らしが失われてしまい、生きる基盤が危うい物になっている。どうやって人が暮らしてきたかを知ることが重要なことになっている。コンピュータ-革命が進んで行けば、さらに暮らしという物が空洞化するだろう。

日本人が日本の水どの中で、どういう形で暮らしを作ってきたかを知ることは重要なことなのだ。棚田の保全と言うことが言われる。その重要性は棚田で景観を守ると言うことだけではない。棚田を作り暮らしたご先祖を想像することなのだ。

人間が暮らすと言うことは食べ物を作ると言うことが基盤だった時代が長くあった。その食べ物を作る里地里山の暮らしが、日本人を形成したのだろう。意味があるのは武将の歴史ではない。庶民の暮らしこそ重要なことになる。

自給の暮らしを見直してみることが、現代人には必要なことになっている。小田原城を取り壊しても良いが、舟原溜め池は残さなければならない。大切な物が何かを見失ってはならない。しかし、このことは誰も振り返らない。

舟原のため池の保全も私には続けられなくなった。石垣島ののぼたん農園の完成の方に重点を置くしかない。仕方がないことだと思うが、いつか誰かが舟原溜め池を思い出してくれるときが来ることを祈っている。

 - あしがら農の会, 里地里山