未来社会の自給農業
2025/11/04

保守ポピュリズムが日本でも進行中である。高市内閣の高い支持率がそれを表している。日本の焦りが保守ポピュリズムに助けを求めているように見える。危険な兆候である。高市トランプ連携に、日本中が安どしている姿を見ると、世界が危機に陥る日もそう遠くない気がしてきた。アメリカの不安と日本の焦りが、寄り添う軍事同盟の危うさ。
日本が中国との関係強化の道を探ることは、高市氏でできなくなっている。韓国で模索されたという、高市習近平会談が行われたことはよかったのだが、その内容はどうだろうか。高市首相は「中身の濃い充実した議論ができた」と語ったとされるが、言いたいことを言っただけの会談だったはずだ。「双方が利益となる協力は進めていく」と述べたというが、双方が利益にならないならならば、距離をとるという意味だろう。
中国の国営中央テレビによれば、習氏は高市氏の歴史認識や台湾への姿勢にクギをさした。「植民地支配と侵略」に言及し「痛切な反省」「心からのおわび」を表明した村山談話を否定する高市氏に対し、習氏は「村山談話は広めるに値する」と強調したという。台湾は「中国の領土の不可分の一部である」とする中国の立場を日本が「理解、尊重」するなどとした政治文書の「順守」も求めた。と報道された。
一方で中国と韓国の首脳会談のほうは、もう少し実質的なものになっていた。北朝鮮に対する、両国の懸念があるという事だろう。また韓国と中国には領土問題がないということも大きい。韓国がうまく中国との関係を深めることができれば、韓国の未来は開けてくるはずだと思われる。
日中会談は互いに言いたいことは言ったという、かなり厳しい会談だと考えなくてはならない。歩み寄ったというより、対立の個所が明確にされた会談だったということになる。経済関係で具体的な次につながるものは何もなかった。肝心の尖閣諸島の領有権に関する話し合いは、対立したとしなければならない。厳しい話し合いだったわけだ。
当然のことで、日米軍事同盟の強化をトランプと話し合った直後である。中国と会談が実現できたことは、これも中国の余裕なのだろう。今後も中国の姿勢は変わらないということになる。また高市氏が尖閣で譲るようなことは考えられないのだから、尖閣で危うい衝突が起こされる可能性は高まっている。それが領土問題を解決しない双方の価値なのだ。
台湾に対して日本が、何か政治的な行動をとると、あるいはアメリカが中国との対立を深めて、何らかの行動をとると、それに対して、尖閣で何か意思表示が起こることになる。常に火種を残そうとしている。双方の意思なのだろう。しかし、中国の余裕のある姿勢を見ると、当面何かが起こるということはない。
中国はアメリカが自滅するのを待っている。アメリカや日本や欧米各国で起きている、保守ポピュラリズムは社会が不安が充満してきているということになる。外国人排斥も各国で起きている。民主主義社会が混乱し衰退する流れとみるほかない。世界各国に選挙でトランプ系が選ばれることになる。
その根本的原因を考えれば、コンピュター革命に人間と社会が対応が、まだできていないという事だろう。技術革新が予想外のところから起きている。一部に優秀な人さえいれば、社会全体の水準を上げないでも、その国は競争に勝利することになっている。それが格差社会を作り出している。
従来であれば、それなりに優秀な労働者であった階層が貧困層に陥ってゆく。自分は能力もあるし、努力もしてきたという意識の人たちが、落ちこぼれ始めたのだ。しかも将来の展望がいよいよ見えにくい状況に落とし込まれた。それが少子化に表れている。自分が悪いのではなく、社会の何かが悪いという意識を持つ人たちが、不満をぶつけ始めている。
コンピュター革命が進んでいる。あまりに早い革命の進行に、社会が成熟していた国ほど、対応が遅れることになった。コンピュター革命は世界一律に起きている。後進国とかつては呼ばれた国でも、一部にITに優秀は頭脳が存在すれば、あっという間に先進国を凌駕する可能性がある。むしろ、後進国と呼ばれた国のほうが、既得権が少ないだけに、社会の激変に対応できる可能性も高い。
日本やアメリカのようにかつては世界の1,2位の経済大国と呼ばれたような国は、社会が硬直していて、コンピュター革命に対応ができないでいる。なぜ日本の生産性がここまで衰退してしまったかの理由すら見つけられない。成功体験が災いしているのだろう。金持ち喧嘩せずで、企業は内部留保ばかり増加させ、新産業の構築を冒険する勇気がない。
今必要なことは、コンピュター革命の最中であることを自覚して自分の状況を考えることだろう。例えば私のような自給農業の研究に没頭するものであっても、コンピュター革命で自給農業の何が変わり、どう対応するのかを考えなければならない。すべての人間が関係ないとは言えない状況なのだ。
社会は大きく変わる。次の社会で自給農業はどのように意味を持つのかを考える必要がある。確かにコンピュター制御で、より効率の良い自給農業を考えるということもある。しかし、より重要なことは、自給農業を行う意味が、次の社会でどう変わるのかである。私の予測では、自分の身体を動かして、自分が食べるものを作るという意味が重要性を増してゆくと、考えている。
人間は何のために生きているのか。自分とは何なのかを問い直されるはずだ。身体はロボットのほうが優れている。頭脳のほうもコンピュターのほうが優れている。そうなれば、人間であり、命をいただいた存在である自分は、どうよりよく生きればいいのか。生きることの意味の確立しなければ不安定な存在になる。ポピュラリズムに流される人間になる。
その人間が生きる原点が食料を自給するということだと、体験的に感じている。コンピュター革命後の社会でも、自分というものを確認するという意味で、食料を自給する暮らしが意味を持つのではないか。どう生きてゆくことが幸せな暮らしなのか。このことを見つけ出せるのが、食料自給の安心立命ではないだろうか。
これはどの分野でも同じことがある。「何のための科学か」このことが、これからの社会では問われるだろう。生命科学がさらに進歩して、命さえ人間が扱うようになるのかもしれない。人間という生き物の限界を超えそうな気がする。わかっているが、やらないという抑制を人間が持つことができるのか。
人間を不幸にする科学が登場する。核開発はその象徴的な産物だろう。夢のエネルギーといわれて日本でも原子力開発が進んだが。大きな事故を起こしてしまった。そしていまだその廃棄物の処理が出来ない。人間のための科学の探求である。
誰もが、どこでも出来る自給農業の確立。これはコンピュター革命後の社会でより重要性が増すと思われる。たとえ、食料向上で、食料生産が行われるとしても、自給農業を行うことで、人間性が維持されるのではないだろうか。身体を動かし食糧を確保する。人間を考えるとどうしてもその結論に至る。