水牛の子供が生まれた。

   



 3月21日早朝、水牛の若葉に雄の子供が生まれた。のぼたん農園バンザイである。未来に続いて行く姿が見えてきた。3月22日にはついに10番田んぼまでほぼ完成した。10番田んぼの下には空堀も作った。これで赤土の流出を防ぐことが出来る。

 12月末に始まったのぼたん農園も基本的構想が具体的に現われてきた。現在、6つの田んぼで実践が行われている。10人の自給が出来る体験農場である。食糧の自給は化石燃料を使わないで、可能なのか。人類は化学肥料や農薬を使わないで、生きて行けるのか。

 その答えはのぼたん農園に来て、やってみて貰えば分かる。農業はやってみない限り分からないものだと思う。見ただけでは半分しか分からない。自給農業が、それぞれにとってどの位置に来るかは、やった人以外には分からない。

 私の37歳からの開墾生活の総決算がのぼたん農園になった。伊能忠敬では無いが、歳をとってから大冒険を始められたのは幸運に恵まれたと言うことだろう。石垣島に来て心より良かったと思う。充実した日々を送ることが出来ている。

 神奈川県山北町高松山の標高三〇〇mの杉林で始まった開墾生活である。それが二回目の冒険であった。一回目の冒険は絵を描いて生きると決めた冒険。三回目がのぼたん農園の冒険である。高松山の冒険はシャベル一本で出発した。若かったのだ。

 車も使わない。水も山北駅で汲ませて貰い。山の上まで担ぎ上げた。世田谷学園の美術の講師をしながらの開墾生活だった。学校の生徒も、同僚の教師も、私が開墾生活に挑戦しているなどとは誰も知らなかったはずだ。あれも素晴らしい体験だったと思う。

 絵を描くことに行き詰まり、新しい自分を作るための開墾生活だった。希望に向かっての冒険と言うより、自分探しの冒険だから気持ちは苦しいものだった。苦しい思いをシャベルに込めた。杉林を切り開き養鶏場を作った。田んぼを作った。畑を作った。5年間で自給生活を達成した。

 この自給生活はあまりに過酷なものだった。できる人は正直少ないと思う。私の千日回峰行だったのだ。だから、シャベル1本の自給生活は誰にでも出来るとは言えない。のぼたん農園の自給体験は半分の人には可能だ。千日回峰行だって達成する人はいるのだから、もちろんできる人はいるし、千日回峰行より生きて行くためには具体的に役立つものが身につく。

 この時好きな鶏を飼い始めたことが、笹村農鶏園になり生計にも役立つようになった。山の中で鶏を放し飼いしていることを知った人が、だんだん卵を買いに来てくれるようになったのだ。これならもしかしたら養鶏業が出来ると考え、玄米卵の宅配販売を始めた。

 そこからあしがら農の会が生まれた。あしがら農の会の30年の経験がいまのぼたん農園の第三の冒険を始めることに繋がった。すべては人との出会いである。自分の生き方を探求するつもりで始めた自給生活だったが、結果としては多くの人の御陰で「地場・旬・自給」の活動になった。

 石垣島に来たときはあしがら農の会が未来に繋がるためには、私が距離を置いた方が良いという気持ちがあった。中小企業の社長が交代しないで失敗するようなものだ。未来に繋がるためには創業社長は迷惑な老害になってはいけない。

 石垣島では絵を描く生活に徹しようと考えた。3年間はそうしていた。ところが、干川さんと出会いその開墾生活に共鳴した。農の会を石垣でもやらないかということになった。相当のためらいがあったが、田んぼをやってみるかと言うことになってから、まだ一年も経たない。

 干川さんと出会い、シーラ原の二期作から始めたのが昨年の5月14日ことだから、まだ10ヶ月である。様々な出会いがあり、「のぼたん農園」にたどり着いた。35年前にやったように、お米を作ると言うことは田んぼを作ることからだという姿をもう一度やっている。

 のぼたん農園が実現できたことは、水牛を飼われている福仲先生との出会いが大きい。水牛での伝統農業の展開である。わかばとの出会いでもある。干川さんは石垣島で最後の水牛を使った伝統農業の体験をされた方であった。福仲さんの水牛を借りて荒起こしや代掻きを復活させようというのだ。

 福仲先生は農業高校で45年教えてきた方である。与那国島出身の方で、与那国の天水田のことを熟知されている。水牛や与那国馬を飼われていて、なんとしても残そうと考えられていた。その考えとのぼたん農園の方向が重なった。

 自然農法から、伝統農業である。石垣島の文化の根底にあるイネ作り文化をもう一度復活させたいと考えた。豊年祭のお米が大規模機械化農業では少し違うと思うのだ。やはり、伝統的な手植え、手刈りの稲が相応しいだろう。石垣島に残さなければならないイネ作りは、伝統的なものだ。

 先ずは溜め池を作った。天水田とほぼ同じような少量の水で、二反10枚の棚田をまかなわなければならない。溜め池は4つで作った。1番溜め池からは0番田んぼ、1番田んぼ、そして7番田んぼ、から果樹園へ。1番田んぼから2番田んぼ、3番田んぼと繋がる。

 4番田んぼには3番溜め池から水が加わる4番田んぼに入った水は5番田んぼ、6番のコロバシャ田んぼへと行く。そして5番から8番に入った水は9番、10番と流れて行く。水道から出てくる程度の水で、10枚の田んぼに水は回って行く。

 これは石垣島の土壌が特殊な土壌のために可能なのだ。天水田が出来る土壌なのだ。昨年シーラ原田んぼをやることでその土壌の性質を知った。だから、小峰先生が牧場をしていたとき、1年間ほぼ毎日通っていたので、ここで田んぼが出来るとは考えていた。

 田んぼには6枚イネが植えられている。熱心にコロガシや補植が続いている。風が強いので、イネは苦戦している面もある。風の当たらない0番はやはり一番順調である。今後は強い風対策を考えなければならない。扇芭蕉をもう少し植えること。

 畦の畑にはハイビスカスの防風林。ハイビスカスの苗木があれば購入したい。果樹苗も考えなければならない。ノニの取り木は50本やった。マンゴーやパパイア。島バナナに、パイナップル。10家族が好きなだけ食べれる果樹園である。

 畑には先ずは向日葵を植える。土壌に腐植を増やし、改善するところからだ。いまのままの土壌では乾けばまるで日干しレンガである。これでは作物は出来ない。チップも運んでもらえることになった。土壌を改善しなければ何も出来ないだろう。

 基本となる10枚の田んぼが出来上がった。わかばは子供を生んでくれた。ののぼたん農園の大冒険の中間報告は、順風満帆である。

 

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