小屋づくりから、自給の家

   

子供のころから何度も小屋というものを作った。鶏小屋を作るのが好きだった。小学校から帰ると鶏小屋づくりをしていた時期がある。東京の家の屋上に作った。あの頃は東京でも鶏は飼えた。幅2メートルぐらいの2階建ての小屋を20は作ったはずだ。その小屋にいろいろの鶏を飼った。200羽ぐらいはいた。あの頃も材料は買うというのではく、どこから探して来ては作った。あちこち貰い歩いたのだが、有効利用することが面白かったともいえる。材料があるよと言って教えてくれる人がいるくらいだった。今回の小屋づくりも、前からある小屋の解体から始めた。材料として後で使えるように解体した。その材料で新しい機械小屋の建設をした。単管パイプの小屋だから、建設も解体も難しいことではない。インパクトドライバーにラチェットを付けたもので、どんどん外した。今回の小屋作りが最後ではないか。最後というのはさみしいものではあるが、みんなで手伝って作った小屋なので嬉しくなる。一カ月余りかかったことになったが、充実していて楽しかった。

新機械小屋が完成した。90㎡ある細長い小屋だ。竹藪を切り開いた場所である。私の住居敷地の中である。自分の家に隣接するところの小屋なので、今度は安心である。やはり、土地を借りているという事だと、安定しないものだ。もっと有利な借り手が現れたので、終わりにしてくれと言うのではおかしいことだが、そういう事はままある。今度の小屋は急な上り坂なところが難点である。そもそも私の家自体が急な上り坂の上にある家なので仕方がない。私はその急坂を毎日出入りしている。それでも小屋までコンクリートの道なので、何とか上がることができるはずだ。軽トラで上がれなかったという人の話もある。最後の工事は、車を回せるようにするスペースである。このスペースで外作業もできるといいと考えた。収穫物を干したりする場所になる。あるいは苗箱を並べたりする場所。農家は空き地が必要なものである。空地は良いのだがすぐ草が生える。草管理が大変である。そこでコンクリートを引き詰めることにした。電気も100ボルト、200ボルト両方とも引いた。水道も引いた。

自分の家の方も、大体の片付けが終わった。1000坪近くある敷地全体が農の会の家になればと考えている。全体が自給の家。私個人のものと考えないことにしている。共用で使えるものにしたい。ただ、一部屋だけ私の場所を確保しておこうと考えている。小田原に来た時に泊まる場所だ。何時まで田んぼが出来るかはわからないが、田んぼが出来る間は来るつもりだ。来た時に、ホテルに泊まってという事では無理だ。荷物を置いて置けるところがなければ、田んぼに来なくなるだろう。今も東京から、田んぼに通う人もいる。来た時に荷物を置ける場所。気軽に泊まれる場所。食事を作れる場所。そうした農の会の家が出来れば、農の会の活動も継続される可能性が高くなる。これから分断社会が始まる。能力差別の時代になる。自給的に生きるなどという事は、追い込まれる可能性が高い。追い込まれたとしても、心の通う仲間が集える場所があれば、何とかなる。

幸い私の所には、ソーラ―発電の設備がある。いつまで続くかはわからないが、ここから農の会の運営費用位は捻出できるはずだ。心配なことは、こうした出入り自由の活動は継続がとても難しい。だれでも自由に受け入れるという事は、農の会を利己的に利用しようという人が登場する。善意で集まることで成立しているあしがら農の会を、自分個人の欲得の為に利用しようという人間が登場する。競争社会で汚された発想をそのまま持ち込んでくる。果たしてこの先大丈夫だろうかという不安がある。悪貨は良貨を駆逐する。農の会に集まる心優しい人たちはもろい所がある。嫌なことと戦うのではなく、避けて離れてゆく傾向が強い。だから農の会ならば、と集まった人たちである。宗教でもなく、教育でもなく、ただ普通に集まり、支え合う民主的な集まり。あしがら農の会がこういうユートピアになってもらいたいものだと思っている。まあその思いがすでに押し付けなのだが。

 

 - あしがら農の会