絵画の特徴

   

宮古島の耕作地 5号 宮古島では4枚の描いた。少しづつ描き進めている。沖縄で始めて絵を描いた事になる。

絵を描く道に進んで良かったと思っている。65歳になったが、これから自分の絵に向かい合えるかどうかだと考えられる。大抵の仕事なら、けりが付いている年齢である。所が絵を選んだために、これから15年位がいよいよ自分の絵と向かい合うときのように思っている。絵と言うものは、生きている以上描く事が出来る。これは幸せなことである。大抵の身体を使う仕事であれば、引退は仕方がない年齢である。芸術の道であれば、年齢は関係がないかと言えば、絵は特別にどんな老齢でもやれる可能性のある仕事だと思っている。その前提としてだが、絵は天才の仕事ではある。天賦の才能とでもいうような、努力や生き方以前の完成と言う事がある。こうした神様が与えたような不思議な生まれ持った魅力の様な、若き天才がたまに出現する。50歳のときに自分が天才ではないという事は確認できたので、この後は、自分の為に絵を描く事に徹することにした。私絵画である。

絵画は第2の挑戦に向かう事が許されている。絵を選んで良かったと思う所である。音楽や、文学でも、絵に比べれば年齢の限界がある。文字さえ書ければ、文学なら何とかなるのかと言っても、さすがに頭がぼけてきては文学は難しいだろう。ボケた調子がいいという文章は理解に困る。手が震えるようになれば、楽器は弾けない。声が出なくなれば歌は歌えない。絵はこの点が違う。頭が少々ボケていても、痴呆症の傾向があっても、本当のところを描いてしまう事がある。アルツハイマーになっても素晴らしい絵を描いた友人がいる。手が震えるなど何の問題もない。それが一つの魅力になる可能性すらある。絵で表現する事は、総合的な世界ではあるのだが、心の根底にあるイメージの様なものなのだ。大げさに言えば、宇宙の全貌を感性で把握していなければ描けないし、同時にそういうものを一切忘れて眼前のものを見ていなければならない。ある意味高僧の悟りの境地を、絵にしてみろというようなことだ。

高僧と言うものが何も特別に偉い人と言うものではない。その人自身に至っている人と言う意味である。絵はその人自身が到達した地点からの、心の図像なのだ。絵とはと全体で言っては誤解が生じるだろう。私絵画に於いてはである。その人々の真実と言うものは、心を打つものである。ちゃんと生きてきた人の、人間と言うものはすごいものだと思う。だから、絵画には技術と言うものは、必要でありながら、邪魔でもある。絵を描く意味が分かり、自分が見るという事を深められるのであれば、絵の勉強は何の意味もないのである。自分が見ているという事の深さ。これには大きな違いがある。この違いが分かるという事が大切。百姓の稲の葉色を見て、稲が今何を欲しているかが分かる眼。漁師は海の色で春が来た事を知る。見えるという事は、見る人間の力量によって変わってゆく。絵を描く眼は、百姓や、漁師以上に、見えなければ描けないはずだ。

ここまで幸運にも、絵を描いてこれた。自分の絵を確認できる水彩人と言う仲間もいる。どこまでいけるかは今後の運次第という事だろうが、自分がやれる事はやりつくしてみたいと思う。そう考える時に、絵に取り組んでよかったと思う。生きている時間、追及を続ける事が出来る。自分のインチキも絵で分かるし、本気も絵で分かる。好い気になったって、偉そうにしたって、絵にはすぐ現れる。絵は自分の奥底への航海の羅針盤である。自然の総合性まで見えないとならない。見えていると結論に現れた、宇宙の摂理まで見えなければならない。見るという事は、自分の意思がそう見させている。これが個人のゆがみである事がままある。あるいは誰かの擦り込みでそのように、自分が見えているような気がしているという事がある。梅原の目で、富士山を見ていたりするものだ。そういうものをすべて捨てて、自分の目で見て、描く所まで、行きたい。

 - 水彩画