絵を造るということ

   

平戸 10号 平戸は移住したいと考えたほど興味があった。厳しい空気と、温かい空気が共存している。私の中にある、霊的な感受性の様な物が、開かれたような状態になった。不思議な少年や、見えないはずの墓場の人にもあった。今では本当の事であったのかが分からない。

どの絵もまず、現実に存在するものを前にして、写生をして描くところから始まる。描きたいという気持ちに従うのだが、最近は里山風景に惹かれて始める事が多い。自分でもはっきりしないのは、里山の様子が描きたいというのでもない。里山の作りだしている暮らしの空気の様なものに、惹きつけられて描きたくなるようだ。谷間があり、段々畑があり、山がうねっていて、遠くに海が見える、あるいは高い山がかすんでいる。そして空がのぞく。というような所なのだが、どの場合も、写生で描けたという気がする事はない。その事をもう少し考えてみる。その場を写し取りたくて描く訳ではない。その場にある毎日の時間経過の様なものも含めて描きたい。畑があれば、いつ頃開墾されたものであろうかとか、昨年は何を作ったのだろうかなどと、徐々に山に戻っているようだが、いつ最後に耕されたのだろうか。そういうその場の履歴の様なものもはとても気になる。

当然どんな人が耕してきたのだろうか。ここで今耕している人は、どんな人なのだろうか。この里山全体がどんな生活を作り出しているのだろうか。土はどんな状態だろう。水の管理はどうなっているのか。そう様々な事を含めてが描きたい物が出てくる。まず、見えていると考えたままに描く。そしてアトリエに置いておく。1ヶ月位眺めている。眺めていると、見る都度色々の事を考える。そのうち、その実際の景色を忘れる。そこから絵が始まる感じである。様々に絵が動こうとするのを見定める。そのころには、写生した場所の事はかなり忘れる。時々思い出しながらも、絵の世界の方が独り歩きして行く。そして、行きどまりの様な所にたどり着く。そこで、一年ぶりとか言う時間を置いて、又写生地にその絵を持って出かける。そこではまた新しい絵を描いてみる。1,2枚描いてみた後、昨年の絵を取りだしてまた描いてみる。何か扉が開いて描きだせる事もあるし、何もできない事もある。

そしてまた、家に帰り、しまってしまうか、描けそうなら見える所に掛けておく。それで新しく描いたものを見ている。そのうちそっちをあれこれやっていると、前からのものも参考に見たくなる。それで並べてみる。それが、3年も4年も繰り返されるうちに、あるとき急に進むような気になって突然終わったような感じになる。そうしたら、完成の方の箪笥に仕舞ってしまう。だから、完成の箪笥には、現在400枚くらいの絵がある。そして、水彩人展が近付くと、完成品の箪笥から今回はどれにしようかと選ぶ、選んでいるうちにもう少し、何とか出来そうな感じに大抵はなる。それで絵がまた始まる。そうして一応出品という事になる。これで終わりかと思うのだが、出品したのだから、大抵はそれで終わりという事でいいのだが、すごい間違いに気づいてまた描く事もある。こんな感じで描いている。出来るだけ正確に今の状態を書きとめてみた。この先どんなふうに変わってゆくのか、そのときには今の感じが思い起こせないだろうから、記録してみた。

こんな描き方なのによく見て描いていると強弁している。私の考えるよく見るという意味は、こういう見方を意味している。見るという事以外にやれることもないと思う。見方の問題なのだ。見るという事を突き詰めると、眼に映っているという事は、なにも本質的な見え方ではないという気になる。見ているとは自分の抽出をしているのだと思う。自分が描きたくなったのは、眼に映っているものを支配している、時間とか、空間とか、そういう奥に横たわる何者かに感動して描きたくなったのではないか。だから見えているものに近付けたいということが、やけに複雑化して行く。そして、他の人が見れば、どこを描いたのだかわからなくなることもままある。丸で抽象画ではないかという事すらある。へたくその為に、見て普通に描く事が出来ないために、こんなややこしい事になるとすれば上手くなれなくて良かった。

 - 水彩画