2014年を終わるにあたって

   

夜更け 中判全紙 原発事故に思い余って描いた絵である。
一年間毎日冒頭に、絵を載せてみた。来年は絵は載せない事にする。

65歳と言う定年の年を終わろうとしている。終わるわけだが、いよいよ本番が始まるという意識もある。今年をけじめの年にするつもりだった。義理は今年で終わりにする。義理の一番が自治会長であった。これはこの地域に暮らさせてもらって、このくらいの事はしなければと思ったからだ。残ったことが始末が付くまでは自治会長の延長としてやらしていただくが、その後は一切の義理的な世界から離れるつもりだ。自治会長は正直私には不向きな仕事であった。多分、相当に不十分なバランスの悪い自治会長であった。出れなかった防犯パトロールが2回ある。万やむえない事情ではあったのだが、やはり申し訳ない気持ちだ。出れるものはすべて出る覚悟だったのだが。週に一度くらいは出なければならない仕事があった。飲み会的なものも、出なければいけないのかどうか分からないのだが、5回もあった。こういう事は全く想像できない事だった。やはり出れないものもあった。

養鶏業を終わりにした。これは始めた時からの計画であった。小田原に移動して10年以上は養鶏をやるつもりだった。それが15年になった。その前に13年やったから、28年養鶏業をやったという事になるのだろうか。無事終わる事が出来たのは、有難い事に、多くの方の助けがあったからである。実感として今はそういう事を思う。一番は卵や肉を買ってくれた人のおかげである。結構わがままな卵屋さんであったとおもうが、根気良く付き合ってくれた。縮小した時に、無理をお願いして辞めてしまった方も多く、申し訳ない思いが残っている。今は気持ちが楽になった。気楽にやらしてもらっていたようだけど、宅配の卵が足りないたびに、つらかった。辛かったからこそ、ニワトリの飼い方も工夫をした。その方法は、このブログでも記録したし、発酵利用の自然養鶏の中にも書いた。1例としての参考にはなると思う。実例と言うものは、矛盾している。この事だけは忘れないようにして欲しい。

農文協からの絵本を出したいという話があった。正直私自身の養鶏は終わる事になっていたので、無理だと思った。それなら、私が終わり後継者に引き継いでゆくという、ドキュメントとして作りたいという事になった。そして「ニワトリとともに」という本を出して頂けた。この本作りに私が何かをしたという事は、ない事なのだが、養鶏を頑張ったご褒美の様な素晴らしい本を作って頂けた。有難い幸運である。ともかくこの本は、写真を担当してくれた常見さんが素晴らしい。この本の物語を紡ぎだしている。私が言うのもおかしなことだが、被写体としては、不十分で申し訳ない。所がこの不十分なところを、小さな養鶏業の意味として、上手く生かしてくれている。こんなささやかな養鶏場でも生きれるよと言うメッセージだと思っている。実際に25年こうして養鶏業をやりとおし、暮らして来れたわけだ。小さい農家の実際の雰囲気が伝われば、一つの意義はあったという事だろう。

絵の方では、来年から水彩人の事務所を引き受ける事にした。水彩人はグループ展から、公募団体に変わり、岐路に立っている。どうせここまで来たのだから、公募展を本当の絵の研究会にしたい。その努力を精一杯やってみたい。それが私の絵の為だと考えた。本当の絵を描くために、水彩人の事務所をやるというのも変かもしれない。しかし、私はいわゆる名画を描きたいと考えている訳でではない。私絵画として、自分の本質まで至りたいと考えている。その為には、水彩人と言う仲間が、何より大切なものなのだ。畑を耕す事が、畑の絵を描くために必要なように、絵の仲間と本気で絵の研究をしないようでは話にならない、と考えている。その為には、水彩人をそういう場にする努力をしなくてはダメだ。そうでなければ、そこそこの水彩画の公募展になるだけで終わる。そんなことは目的ではない。ここは初志貫徹である。今やるべき事は水彩人という組織が、組織として水彩画の研究の団体になれる為の、仕組みの整理である。

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