入学式に親が行く

   

入学式の当日学校の担任の教師が、有給休暇を取って、自分の子供の入学式に出たという。それが許されることなのかどうか、話題になっている。どうも話題の方向がおかしい。子供の入学式に親が出ることが、正しいかどうかを議論すべきだ。学校というのは、子供にとって独立した社会だ。子供の成長の場だ。義務教育期間を終えれば、入学式に親が行くのは、良いことには思えない。入学式に行きたいと考えるのは、親の気持ちの問題にすぎない。ここは我慢した方がいい。親が入学式に出たいから便乗して行くのだろう。学校の教師なら、入学式がどういう日かぐらい十分知っているはずだから、子供の問題ではない。今の学校は、様々な問題を抱えている。社会の矛盾が学校に集約されてゆく。社会はより、格差的な状況に進んでいる。階層社会。貧困の問題。学校と社会がどう関係するべきか。親と学校のかかわりを、きちっと見直すべきだ。どうも形式論議になっている。

私の親が入学式についてきたのは、小学生の時だけである。当たり前のことだと思っていた。中学生になって、親が入学式にいなければならない理由などない。この点私の親は、意思が強かったと思う。大学にまで親が付いてくる時代というのは、どういうことになっているのだろう。バカバカしいというか、恥ずかしいというか、全く私の学校という感覚とかけ離れている。学校に行くというのは、子供個人の問題である。高校に行くのも、私の人生である。親がどうとか、全く関係がない。入学式についてまで行くから、子供にしてみれば、人の為に学校に行ってやってるというようなことになる。この点、世の中ずいぶん変わってきている訳だが、親子の関係については、ちょっとびっくりする位変わった。私の親が特殊だったとは思わないが、子供の学校という世界に顔を出すばあい、一定の親の節度が必要なんではないか。学校というのは、むき出しの子供という人間が、人生で初めて生き抜いて行く場面である。のこのこ親が顔を出したのでは、子供の沽券にかかわる。

何があろうと、そこでは自ら戦いぬくしかない場所なのだから、覚悟しろという感じなのではないか。大げさでなく、ごく当たり前に子どもの世間は、そういう感じだった。小学校の入学式と言えば、桜である。桜の華吹雪が、今でも思い出される。あの幸せ感が、すべての始まりだった訳だ。あのときに、嬉しさにあふれたことが、その後ずーと頑張れたもとだったと思う。おじいさんがランドセルを買ってくれた。一番に良いランドセルを買ってほしいとおじいさんに頼んだ。何故そんなことを頼んだのか分らないが、私が色々とひがんでいるのではないかと、心配していたところのあるお祖父さんは、あえてランドセルを買ってくれたのだと思う。伊達正人的な感じがあったのかもしれない。おばさんは小学校に行く、制服というものを作ってくれた。そんなものを着ている子供というのは、全くいなかったのだが、私のお婆さんという人は、小学校の制服を大正時代に普及活動をしていた人だったらしい。なにしろ私の父が、モデルになって、あちこちの小学校を歩いたという話を聞いたことがある。

昨年、一昨年と小田原の中学校では、相次いで学校崩壊のような事態が起きた。そのことに対して、具体的な対策がとられた訳ではない。また何が起こるか分らない状況があるはずだ。回覧板でも、学校からの便りが2通あった。地域と学校という関係も、色々模索されているらしいとは思われるが、地域一体教育を目指すとある。3つの心、ーー「温かい心」「広い心」「燃える心」3つの力ーー「関わる力」「学ぶ力」「創る力」と示されている。白山中学からは、また学校としての目標がこれとは別に示されている。教育委員会と、現場の中学とは目標に連携はないようだ。さらに、小田原市子ども会連絡協議会というところからも便りが回覧されている。それは様々な組織が子供に対して、熱心な活動があるかに見える。もう少し、具体的な対応が必要なのではないだろうか。路上生活者への襲撃問題でも、具体的に何をするかである。そうした直接の問題を通して、具体的に子供と、学校と、地域が問題を共有して行くことではないだろうか。

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