おんりーゆーに行く
久しぶりに「おんりーゆー」に行った。5時から夜の入浴券が使えるようになった。節電の為に宵券が一時間繰り上がった。これがなかなかいい。それでも1回が900円だから、安いという訳ではない。たまになら行く価値があると思う。露天風呂で日が暮れて行く中に居るのが良いのだ。南足柄は夕日が良い場所である。西側に金時山があり、太陽は箱根の山に落ちて行く。谷間が紫色に暮れて行く日がある。この色合いの深さは他に変えようがない。なぜあのようになるのかはよく分からないが、箱根の山とその向こうの富士山が、太陽をさえぎる衝立のようになり、独特の色合いに空を染めるのではないか。小田原や山北ではそうならないのが不思議だ。大雄山の駅あたりでも、素晴らしい夕日に出会える。アサヒビールのある怒田 のあたりを染める夕日は、えも言われぬものがあり余所で視たことがない。怒田には「がらんどう」という喫茶店がある。窓辺に座っておいしいコーヒーを飲む。あそこで一休みして夕日を待つのはいいものである。
おんりーゆーでは、露天のぬるいお湯で夕やみに包まれて、ただただ寝ているのが良い。ぬるくて風邪をひきそうである。お腹が冷えてしまいそうにぬるい。あのぬるさはたまらないがそれが良い。熱いお湯もあることはあるが、そちらには入ったことがない。森の中では熱いお湯より、ぬるいお湯の方があって居るということだ。ともかく何もしないで、1時間半ボーとしていた。こういうことは昔は我慢できなかった。今はその位あっという間に過ぎて行く。ただ、暮れて行く空の色の深さを呆然と見てた。絵にも描けないどころか、あの静かな画面にまさることは出来ない。このひと月の疲れをしばらく忘れていた。良くないのはいつの間にか絵を描いていることだ。そんなことをしなくて良いのだが、ついつい絵を描いている。あの空は清色である。コバルトブルーにセルレアンブルーを混ぜながら、ブラックを混ぜる。この場合、青炭を混ぜてやりたい。それぐらいなら、青炭だけの方がいいか。いずれ水分量はどうすればいいか難しい。
あのドーム状に覆い尽くす、木々の枝は描くことが出来ない。梢には新芽がわずかに膨らんでいる。この色合いの良さときたら、微妙過ぎて驚くばかりである。木によってその春の段階の違いがあって、自然というものの絶妙は際立つ。ゆっくりしていて見えて来るものばかりがある。一時間前見えなかったものが、ただボーとしていて見え始める時間の不思議。この1時間という時間はどのように描けるのだろうか。一瞬に見えたものと、見続けて見えてきたものと、絵のつもりでは全く違っている。そんなことを言えば、風呂から見た場合の夕日と、畑から見た夕日では違って見えていなければおかしい。見えるということはそういうことになる。泣きながら見た夕日。笑いながら見た夕日。みんな色が違うのだろう。ある時、急に深く入り込んで見えるときがある。多分根の事など忘れて、無心に見た時のような気がする。
箱根の北側の山麓は修験道の地域である。最近はやりの言葉で言えば、パワースポットである。大雄山最乗寺は曹洞宗の寺院でありながら、天狗さまが祭られている。江戸時代には大山詣でと並んで、重要なお参りの場所であった。江戸時代の人には金時山山麓の空気が、よそとは違うことが感じられたのだろう。こうした時代に、おんりーゆーの良さはだんだんに浸透することだろう。江戸時代だってどうしようもない閉塞した時代ではある。だからこそ、内に内に世界が広がって行った。娘がナチスに追われている心配のさなかに、マチスの絵は平和の絵である。今起きていることは、一つの結論のような気がする。戦後日本人のやってきたことの結論のように感じられる。おんりーゆーに入って、少しは楽になった。