日本力の意味

   

農業をやりたいという人から、時々連絡がある。できる限り力にはなる。と言っても農業法人をやっている訳でもない。農業研修所をやっている訳ではない。就職したいとか、住み込みで研修したいという人には対応が出来ない。それでも、自給的に農業体験をしたいという人には対応している。就農をして生計を立てるということは、よほどのことがない限り難しい。それは就農する人の責任というより、日本の農政が悪いからである。国際競争力のある稲作。政府がモデル農場を作って、このようにやればできるという姿を見せてほしいものだ。出来る訳がない。イメージとして、町工場の成功例のような、特別な技術の工夫を重ねた、成功例を政府は考えているのだろう。農業はそういうものではない。誰もが当たり前に出来て、共通の安定した技術に支えられるものである。農業は互いに競争ではなく、共同することなので、普通の成功しかない。

すでに稲作農民は限界点で生きてきている。だから平気年齢がどんどん上がる。若い人に職がなくても、家の農業を後継者に勧められる稲作農家は少ないだろう。政府はTPPに加わることでいよいよその息の根を止めようとしている。最近田んぼの無くなった日本をイメージする。麦の無くなった村の姿になかなかなじめなかったが、田んぼがない農村を受け入れられるだろうか。田んぼから生まれるのは赤トンボやカエルだけではない。日本人も田んぼから生まれた。日本の衰退が目立ってきている原因の主たるものは、農業から日本人が離れたからだ。工業分野であれ、政治の分野であれ、農業で特に稲作で日本人独特の観察力や、調整能力が培われてきた。捨てようとしてきた農村社会というものが、良かれ悪しかれ、今の経済大国日本を作った。

今の社会は人間の生産に置いていも、消費財的である。回り道の人間成長がない。親を敬いなさいとか、お年寄りを大切にしなさい。子は宝である。田んぼでは当たり前にそうせざる得ない。子供も子供のレベルで、労働力である。学校教育は読み書きそろばんでも、人間力は農業をやりながら学んだ。日本人は大半の人間が農民だった。江戸の大木戸内の中心市街地であっても農地が半分なのだ。大名屋敷なども庭が広く。果樹などを植えてある。緑色濃い農業都市なのである。1950年代の世田谷を知っているが、一面に広がる麦畑がまだあった。砧の方は水田地域すらあった。江戸時代の再評価以外し、その中にある新しさを、再生して行く以外日本人が生き残る道はない。

日本人が独特に生み出し、世界に評価された製品。その発想の原点は皆江戸時代に培われたと言える。アニメなどまさにそうである。しかし、日本力が弱まるに従って、アニメもリアルな表現に進んでいる。この写真のようなリアルさというものは、改めて考えたいが、価値観を失ったことを表している。即物的にしかものが見えなくなっている。浮世絵にあるイメージの増幅効果。現実以上に現実を再現する力量。それが日本の漫画に反映していた。江戸時代のシーボルトの魚類図を描いた絵師。日本の絵画世界は、写真的リアルを底の浅いものとして、見向きもしなかった。顔にある影を、庶民は汚れとしか見なかった。それが日本の文化の奥行きである。それは田んぼから生まれた。田んぼでの耕作は、見えないものを見ようとする毎日である。見るということが、感じるということで、思想に基づいている。その奥行きこそ、日本人の世界に貢献できる稲作文化である。

昨日の自給作業:2時間30分苗床作り 累計時間:8時間

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