原発は止められない。2
事故以来頭から離れず、考え続けたことだが、少しづつ煮詰まってきた。資本主義経済を止めない限り原発は止められない、という考えに至った。東京電力というものは民間企業である。電力は水のように公共が管理運営してもいいものである。しかし郵政や国鉄が民営化した。最近で言えば、竹中路線のようなものがある。新資本主義というものらしい。滞ってきた自由競争を活性化しよう、強化しようという、能力主義の正義の思想が支えた論理。強いもの、優れたものが勝つのが当然という考え方。能力主義こそ越えられない最後の差別思想。大学の時に教育に能力主義は必要か。こういう論議があった事を思い出す。今は原発の事であった。東電も民間企業である以上。給与は徐々に上がっていく。社員の企業への忠誠と意欲というようなものは、出世と昇給に支えられている。東電の将来を考えたとき、独占であり、地域限定企業である以上。頭打ちである。いまのままでは、人口減少化社会が待っている以上、拡大再生産は望む事が出来ない。
東電は電力需要を拡大しない限り、株主と社員の要求にこたえられない宿命がある。そこで、オール電化住宅だとか。需要の拡大を目指す。昭和40年の5倍の家庭での電力消費だそうだ。さらにということで、電気を海外に売ることを考える。送電線を張る訳にもいかないので、発電技術を売りたいと考えるようになる。温暖化阻止が世界の目標である。「原子力発電か、グリン電力か」の選択はあるが、経済優先が資本主義の競争なのだから、原子力発電技術の輸出に狙いを定めたのは、企業である以上当然の帰結である。再処理燃料の発電がその行き着くところ。その方針は、これほどの大事故を起こしながらも、原発を必要だとする世論に支えられている。資本主義世界の競争に勝ち抜くためには、少々の犠牲があろうとも利潤こそ正義の、資本主義の宿命に進む。拡大再生産のスパイラルに入り込んでいる。企業は安い法人税の国を選ぶという理由で、法人税の減税を管政権は行った。同じく安い電力の国。労働力の安価な国。土地の安い国。こうした競争を正義とする以上、必ず原子力の選択に至る。
近隣住民から、もう原子力は厭だという、反対運動が起きない。この事態に至っても競争の原理主義の洗脳から覚めることはない。戦後の社会は実感の欠落に、進んだ。生きるという生な実感が薄くなってきた。必死に生きているのは、いつの時代も同じなのだろうが、20年前より今のほうが、個々人の存在が希薄になっている。それぞれが生きるという基盤を、地に足を付けて支えるという図式が、見えなくなっている。原発を開発して、世界に販売したいと考える東電という組織が、そのことで起こる世界で生きている人間という、生な存在との関係を想像することが出来ない。競争に勝つという原理にすべてをのみ込まれる人間。アメリカもグリンエネルギーと主張しながら、実際には原発に依存して行こうとしている。それは世界中が原発で覆われるということである。原発事故は繰り返し起こるだろう。世界が放射能で汚染されてゆくことは目に見えている。その悲惨の中でも、まだ競争に勝とうという馬鹿げた衝動に押され続ける人間。
昨日と明日は同じで良い。普通で良い。そう言う価値観の中で、人間の充実、深まりを求める方向への転換。そこに至らない限り、人間は原発を止められない。例えば、自動販売機は500万台くらいある。単純に1台あたりの消費電力を1.0kした場合、500万kWの電力を消費していることになる。福島第一原子力発電所1号機から6号機まで全ての定格電気出力合計が469万kW、概ね原子力発電所1つの消費電力を、自動販売機が使用している。せめてこの夏場の野外の自動販売機は、駄目だろう。何やかや理由を付けて、儲かること原理主義がまかり通る。リスクがあろうが、放射能汚染があろうが、本当は儲けるためには、目をつぶるべきだと考えている。こんな日本人に原発を止める見識は求めようもない。世界の異端児に成り、排斥され、経済封鎖された時にやっと気づくだろう。「これじゃーもうからねぃー」それ以外に日本人は目が覚めない。