何故、原発を止められないのか。
東電の国有化の話が出ていた。本来なら国がやっているのが、当然である。ところが国がやると効率が悪いという所がおかしい。民間の安上がりがいかにリスクを伴って居るか。競争のない民間が腐るのは当たり前だ。電力事業というものは、水事業に近いものだと思う。原発が日本のような巨大地震が周期的に来る地域に、不適切な施設であることは、誰しも理解していると思う。しかし、止められない。原子力発電が、日本が国際競争を勝ち抜くために、不可欠な安価な発電方法と位置付けられているからだろう。ここに隠れた何かを感じる。原発が、かなり危うい施設であると思いながら、そのことに目をつぶろうとしてしまう。多分大丈夫だ。福島はやられたが、東海地震は多分来ないだろう。来たとしても浜岡原発は、大丈夫だろう。国民の多くはこう思いたいの一心ではないか。思考停止状態。そして、近い将来起こるかもしれない、次の原発事故の不安を抑えてしまう。日本人には、正常な判断が失われている。危険な原発を日本政府に止めさせるためには、国際的な圧力しかない。日本製品をボイコットすることだ。危険な原発によって作られている、日本製品をボイコットする。
北朝鮮が原子爆弾を製造するというので、国際社会は経済封鎖をしている。日本も同じことではないか。世界を放射能で汚染してしまい、さらに原発にしがみついて行こうとしている。世界の迷惑者に日本人が成っている。日本人が日本の原発で、被害をこうむるのは仕方がない。自業自得である。しかし、世界を汚染してしまいながら、さらに原発を続けるでは許されない世界状況に成る。現日本政府には決断力というものが失われている。現状について回るだけで、新しい方針を打ち出すという、余裕も判断力もない。それは国民と同じである。相も変わらず原発は必要だと、石原知事は選挙演説で語っていた。テレビ報道ではこの点実に、微妙な共通戦線が張られている。福島原発では想定外の、二度と起こらないような自然災害が起きてしまった。空前絶後である。女川原発では大丈夫だった。他の原発は、どうしても必要なものだし、まさかこのような自然災害が又来る訳がない。何とか安全基準をオイオイ高めて行けば、何とかなるさ。の楽観論。
原発廃止論はタブーになっている。NHKの報道の中に、わずかに原発危険論の目を感じることがある程度で、他の民放は戒厳令下の報道管制のありさまである。原発事故で福島の有機農家の方が自殺された。農薬や化学肥料を、国が安全だというにもかかわらず、より安全な生産物を求めて努力してきた方である。放射能汚染を思うと、絶望的な気持ちに成る。これがこれから何100年も続くのである。まさに取り返しのつかないことを、日本人はしてしまったのだ。このことへの反省も、全く感じられない日本人のあさましさ。しばらくしたら、忘れたような顔をして暮らしている気がする。チェルノブイリを世界が忘れられないように、福島原発を世界は絶対に忘れない。そして日本に原発廃止を要求する。日本の原発を世界に売り込もうという恐ろしい、考えの持ち主の管政権は、世界の笑わい者である。安全装置の無い、格安原発です。事故で教訓を得ましたから、ぜひ取り入れて下さい。
今回のことで良く分かったのは、原発は割高発電であるが、続けたいということである。電力が安くなるということで原発を選択しているのではない。その理由は原爆を作れる力を保持しておくことか。他に隠されたことがあるのか。思考停止状態なのか、本当のところはわからない。原発を止めることから始まる、日本経済の崩壊の不安。何か日本人が問題を正面から深くとらえることが出来なくなっている。この30年余り、すべての付けを次世代に送ることで済ませてきた。衆寓政治といういうとだ。マキャベリによれば、次に来るのは独裁ということだから、こいう時こそ気おつけなくてはならない。原発を止めるのは簡単である。国民が暮らしを変えればいいだけのことだ。生ごみは段ボールコンポストで1炉廃止。温水便座を止めて1炉廃止。自動販売機を止めて1炉廃止。冷房を1度下げて1炉廃止。電化製品を省エネタイプにすれば1炉廃止。無駄をやめさえすれば、原発は止められる。
昨日の自給作業:土振るい2時間、田んぼの測量3時間 累計時間:5時間