画竜点睛

絵を描いていると、「画竜点睛」と言うこと出会うことがある。絵が一筆で光を放つことになる。輝き出すことだと思っている。これは例え話ではなく、実際に画面で普通に起こることなのだ。そういうことを何度も経験した。絵はそのときに終わる。画竜点睛中国の故事は面白い。
梁の武帝が南京の安楽寺の壁に4匹の金竜を描くように、画家張僧繇に命ずる。わずか三日間で絵を描き終える。大きな竜を壁に金泥で描く。一気に書いたのだろう。天に昇るような竜は、3日ぐらいが適当で、早く描いたという話ではない。
よく見ると、これら4匹の竜には目中がまだ描かれていない。そこで見物に訪れた人たちが、目を入れてくれるよう画家に頼む。すると張僧繇は「竜に目玉を入れるのは簡単なことではある。しかしそうするとこの竜は描いて閉じ込めた壁から、抜け出して飛んでいってしまう。」と言うのでまさか。
そんな馬鹿な。大げさなことを言うもんだ。人々は誰もこんな話を信じない。画家はしかたなく「わかった。それでは竜に目を入れることにしよう。ただし4匹の竜のうち2匹だけだ」と皆に約束をする。画家はみなの前で筆をとると、竜の目を点で静かに入れる。
画家が2匹目の竜に目を入れたところ、空には稲光、黒雲が湧いて、竜が舞い上がって行く。壁には目玉のない2匹の竜が残っているばかりなのだ。本当に目を入れた竜は、目を入れたことで命を授かり、天に帰って行ってしまったのだ。
南京の安楽寺の壁には、2匹の竜がまるで生きているかのように見事に描かれていて、まさに天に昇りそうに見える。アニメーション映画がない時代である。そこで、出来たお話ではないだろうか。絵が動き出す。絵に力がこもっている。西洋画で言えばムーブマンがあると言うことだろう。
この絵画に力がこもるという一瞬は、一つの点のこともある。そうした絵の作りを意味している。絵は動き出すかのようなものでなければならないと言うことである。画面の中に力がこもり、見ているものが力感を感じると言うことだ。この絵の動きは、精神の動きである。
気韻生動という絵の言葉があるが、この言葉も、絵が生きているかのように生命を湛える。動き出すと言うことを意味している。画面が動きが生まれると言う一瞬がある。これは描いている人なら分かる感覚だと思う。まあ死んだ絵を描いている人には分かるまい。この動き出す力がこもったときに、絵が出来たときだと思っている。
絵の中に自分が入り込んで描いていると、この動きが強まったときが、突然思いもよらず訪れることが分かる。欲を出してそのときを逃し、さらに描き続けると、また絵に力が失われる。ああここが絵の終わりだなと思う一瞬がある。
これは突然訪れることで、こうすれば最後の一点に眼が入ると、描く前から分かるようなものではない。それが分かっているという所が、さすがに名人なのだろう。私の場合でたらめを思いつくままに繰り返している。するとあるとき何故か、不思議なことに絵に力がこもる。
偶然、天から授かるように、僥倖をえる。そんな感じで絵に力がみなぎるようなことが起こる。絵が出来るという感じは、偶発的なことになる。だから、あらゆる試行錯誤を続けてそのときを待っている。その試行錯誤の手段が豊富なほど、偶然の回数が増える気がする。だから思いつくことはすべて試みる。
しかし、その偶然には筋書きがない。いつも予想外な訪れである。絵を描くと言うことに一般論はないから、あくまで特殊解なのだが、絵に力がこもる時が来ることを目指して描いている。不思議な感覚なのだが、具体的な手順や様相を言葉にはしにくいことだ。
頭で考えないように絵を描いているわけだから、大脳的な理解ではない。思い込みのようなものだ。描いていて、ぎょっとするほど絵が変わる。そう思わされてしまう場面が来る。それを待って絵を描いているとも言える。その力がこもる状態を、分析的には考えても仕方がない。
考えるとそれが技術的なものになり、くだらないことになる。これは重要なことで、つまらない絵の大半は理屈やシステムで描かれている。手順を捨てなければ、忘れなければ、深い世界に入って行くことなど出来ない。浅茅絵にとどまってはならない。自戒。
しかし、いい絵だなと思う絵は、すべてがこの力がこもった絵なのだ。力がこもっている絵はすべてが好きだというわけではない。好きだなと思う絵は力がこもっていると言うことになる。名画はおおよそ力がこもっている。それぞれにその力のこもり方が異なる。絵に一般論はない。
だから法則はあるのかもしれないが、そんな分析をしたところで意味がない。むしろ害悪だろう。どんな要因で絵に力がこもるかは分からないでいたい。分からないままの方が良い。そんなつもりで絵に向かっている。だから、日々の一枚のはずが、絵が止るときがある。
ここから絵が始まる。苦しいと言うことは大切な問題に直面していると言うことだと考えて居る。行き詰まったときに、過去の成功例を考えてはならない。未知の解決に向けて、自分を壊して行く。自己否定以外人間構えに進むことはない。
静物画であっても、中川一政氏の絵はまさに動静の絵だ。絵の中で力が操作されている。力の勢いが渦巻いて、均衡するところまで描いている。

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