品種の流出

日本で評判になったブドウ品種「シャインマスカット」が中国で作られている。勝手に作っているのだから、やはり盗人と言うことだろうが、たいしたことではないと思っている。私は著作権というものを認めない考え方だからだ。良いものを独占しようという心根がそもそも卑しい。良いものほどみんなに使って貰うべきだ。
資本主義というものが、お金儲けだけを目的にする拝金主義に落ち込んでしまったのだ。生きる目的が金儲けというつまらない生き方の人が増えているのだ。人間の生きる目的は、もっと多様であるはずだ。人のために生きることを喜びに出来る人もいる。
ノーベル賞を受賞した大村博士針田主義の人だ。発見したイベルメクチンという薬は、石垣島で、黒毛和牛の飼育を可能にした薬である。製造しているメルク社はWHOをとおして無償提供をし、毎年3億人を救済している。これは、発見者である大村智博士が、特許ロイヤリティの一部放棄したからだ。
大村博士は経営者としても優れた方である。北里大学の経営的危機を法人経営者として建て直した人でもある。財政的に行き詰まっていた北里研究所を立て直し、新しい病院を建設した。独学で蓄積した財務知識は、プロも認める経営感覚で辣腕をふるった。その経営者が病気撲滅のために、薬のロイヤリティーを放棄したのだ。このことはノーベル賞受賞以上に素晴しいことだと思う。
人のためになる行き来方。これは何もノーベル賞を受賞するような高い能力の方だけのことではない。何も持たない人でも、人を思いやる心で生きることは出来る。なかなか難しいことではあるが、人のために生きることが難しいようではつまらない世の中だと思う。
シャインマスカットで一儲けするために、盗んでいるのだから、それは良くない。シャインマスカットが素晴らしいので、みんなに無料にで食べて貰うように、作っているというのならどうだろうか。許されるのではないか。確かに中国で作る人は、儲けたいから作っている悪い人である。
「それとこれとは」人のためと、金のためとは少し問題が違うと思っている。ややこしいところだが、誰にでも作って貰えば良いだろうと思うわけだ。それを金儲けのために品種を作る。さらに良いものを作るには、お金がなければ出来ないのだから、人に成果だけ盗まれるのではたまらない。これが現実の資本主義社会であることは分かる。
鶏で笹鶏という品種を作出した。自家採種した卵で飼育が継続して行ける品種である。日本にはなかった卵肉兼用種である。この鶏が世界の自給農業を可能にすると考えたのだ。あるとき原宿のナチュラルハウスで、笹鶏の肉というものが売られていたのをみたことがある。ここまで来れたのかと、素晴らしいことだと思った。
卵も販売していて、有精卵であったから、返せば笹鶏は増やすことが出来た。それで良いと考えて居た。笹鶏養鶏が日本中で増えてくれれば、ビルゲイツ氏のように、アフリカの人に笹鶏を配ればどれほど良かったかと思う。鶏の品種も企業が独占している状態だ。
ところが、鳥インフルエンザの流行で私自身が笹鶏の継続を止めた。そこで笹鶏は終わってしまった。残念なことだったが、私が考えるような自然養鶏を、日本の家畜保健所では、否定されたからだ。放牧養鶏。2種類の発酵を利用した自給飼料。これを危険だから止して欲しいと言われて嫌になった。
何も勉強していない家畜保健所の職員に、たしかに笹鶏は何のワクチンも打っていない。しかし淘汰を繰り返し、免疫を持つ者が生き残っている。後退があるかないか、調べてくれともう入れた。その結果免疫があると言うことが確認できて、それから止めろとまでは言わなくなった。
子供の頃にいつか世界一の鶏品種を作出するという夢を抱いた。ラジオで聞いた、日本の鶏が、一年365個の卵を産んだという話だった。いつかやってやるぞと考えた。まだ小学生になっていなかったから、1955年頃のことだと思う。まだ戦後社会で、日本人が世界一と言うことが嬉しかったのだ。
それから鶏好きが高じて、いつか世界一の鶏を作るという夢を持った。奨学生の時には100話以上の鶏を飼って、目から脚の詰めまで黒くなる鶏を作出した。その夢が回り回って、卵肉兼用の自家繁殖養鶏の笹鶏として実現したのだが、国にケチを付けられて嫌になった。
非科学的な権力の強制で、止めさせられたことは残念なことだったが、警察が来る。地域の自治会長も説得に来る。完全にやる気が無くなった。世界のためだと思って、作出して、自由に使って貰おうと考えたのに、あのときにビルゲイツと知り合いだったらと思うと残念だ。
利益を独占しようとする、これが資本主義の悪いところなのだろう。本など出版したから、止めさせたがったのは養鶏企業だったのかもしれない。こうした利益追求が人間をどこか卑しいものにしている。本来人間はそんな安っぽい生き物ではなかった。
人間は人のために生きることのできる動物である。利他主義を価値観に出来る生き物であった。世の中が悪くなっているために、利己主義が起きていることだと言うことも気づいておかなければいけない。良いものならば、誰にでも分け与えれば良いだろう。
ここに資本主義の醜さが出てくる。それならお前の絵はどうなると言われたことがある。全く著作権などないものと考えて居る。使えるならば是非とも役立てて欲しいと思うだけである。知らない間に実際に印刷して売っている人がいたが、是非やってもらえれば良い。
名前を変えて使っても良いか。つまり盗作でも良いか。という質問をいただいたことがあった。それもかまわない。それで困るようなことは私にはなにもない。私絵画においては、絵は描く行為に意味がある。他の人がその結果である絵を、何かに役立てるなら素晴らしいことだと思う。むしろそれを願っている。
音楽というものがそうである。レコードという完璧な写しが出来て、音楽が大衆のものになり、上流階層の音楽ではなくなった。文学もそうである。字の読める人が増えて、本が印刷されれば複製は無限である。絵画も何ら変わらない。芸術すべてが同じで、それを創作者として、作品を商品と考えることが間違っている。
それでは生きていけないではないか。という考え方が、資本主義の中から出てくる疑問だ。資本主義が克服され、人間が共産主義的になれば、誰でも平等に生きて行ける。現代であっても、富が平等に分配されるのであれば、社会のために生きている誰でもが、等しく生きては行ける。
私が創作者であるかと問われれば、いささか怪しいが、創作者であろうとできる限りの努力は費やしている。そして自分が食べるものは作っている。自分が消費しているエネルギーは太陽光発電で生産している。今までが押せ割成るばかりで、社会のために対して対して役立っていない、補いである。
資本主義では、競争が次の技術を生み出す。そういう考え方である。しかし、人間はそんなちゃちなものではない。競争などなくとも、人のためになれる喜びで、努力を重ねることは出来る。絵を描いていて苦しいのは、絵が人のために余り役立っていないと言うことである。
人のために役立つものであれば、お金になる。これが商品の考え方だ。商品として成立しないものは、価値のないものと言うことになる。果たしてこの資本主義の考え方は、正しい考え方だろうか。人のためになれないと言うことで、ゴッホは狂ってしまった。ゴッホの問題ではなく、社会の程度の低さの問題だったのだ。
社会が商品として求めるものは、必ずしも人間にとって価値があると言えるものばかりではない。ギャンブルだって、麻薬だって、原子爆弾だって、お金になる。資本主義が価値とするものは、人間のためにはならないものがいくらでもある。人間を堕落するものを生み出す、競争主義の側面がある。
競争主義が人間を堕落させている。シャインマスカットを作出する目的が、人を出し抜くためだから、独占したいのだ。良いものを作り、みんなにその恩恵を利用して貰う。こう言う世の中が人間の目標ではないのか。人のために尽くす人間になろう。こう小学校で教わったと思う。今は金融教育で、そうではないかもしれない。
競争などなくとも、人間は人のために努力して成長できる。それが自己実現だと思う。もちろんお金を得るために努力するという現実があるのは分かる。しかし、お金のためだけに生きたとしても、むなしい人生ではないか。人間として人のためにいくらかでも役立てたという喜びを持って死んで行きたい。
見返りを求めない人間でありたい。それが可能な生き方は、自給の生き方である。食べるものさえ確保できれば、人のために生きることが出来る。人のためであることが、実は自分の為なのだ。自分の体力で食糧を自給できる技術を実現したい。
それが残された時間に何としても実現したいことだ。この後やれることは自給農業技術の確立である。身体が動く残り6年間が重要になる。研究のための場は用意されている。助けてくれる仲間がいる。自由に出来る有り難い環境である。今日もまた出来ることをやるつもりだ。