「詠み人知らず」

日本では国が和歌を集めて作った、勅撰和歌集というものがある。万葉集や古今和歌集などである。そのなかには沢山の詠み人知らずとされる作品が掲載されている。誰が読んだ歌とは分からないが、人々の間に歌い継がれている和歌が沢山あったのだろう。
和歌は手本があり、それを本歌取りして自分の創意を加えると言うことがあった。だから相聞歌のような場合、互いが本歌を知っていると言うことが前提にになって詩が歌われる。それによって人間の教養を測ったのだ。それは、口伝として多くの和歌が人々の間に伝わっていたことを示している。
また沢山の良い和歌を知っていると言うことが、高い教養として考えられていたと言うことでもある。また和歌は声を出して読むと言うことが普通に行われていた。山の上の開けた場所などで、空間に向けて和歌を歌う。声に出すことで、言霊が神に届けよ。と朗々と歌った。
つまり神の前では、和歌に詠み人入らなかった。このときの神は宗教的神と言うよりも、氏神というような地霊のことなのだろう。日本人古来の自然神信仰である。人間の声が天まで届けと言うだけのことになる。願いを言霊に託して、口に出す。そのことが大切だったのだろうと思われる。
しかし、このときの願いとは、五穀豊穣であったり、社会の平安を願うものである。宝くじに当たるようにとか、良い会社には入れるようにとか言う個人の願望はそもそも、日本の神さまは聞いてもくれない。それは、拝金主義社会に、神社が便乗した商法なのだ。
お賽銭を払い、個人的願望を願うなどやってはいけないことだった。江戸時代の日本人ならば誰でも知っていたことだ。ところが、神社としても、日本人から信仰が失われて、お賽銭が集まらない。それで、個人の願望も叶えますと言うことで、神社経営策を編みだしたのだ。
ものを作ると言うことの最終的な位置は、詠み人知らずだと思う。どのような創作物であれ、自然という大きな存在の前では、故人と名前などあったところで無意味になる。縄文土器にも作者はいるのだろう。縄文土偶にも作者はいるのだろう。国宝という宝を作った者が、常に無名である。
当時も今も作者など作品の前では無名である。作った人のことなど意味をなすものでなかった。署名を入れると言うこと自体が、くだらないことだと思う。作品が商品化すると言うことで、署名が必要になったのだ。商品でないものであれば、詠み人知らずで良いはずだ。
イザヤペンダサンと言う山本氏七平氏に作られた作者の名著がある。「日本人とユダヤ人」。神戸市中央区山本通で生まれたユダヤ人という設定でか書かれていた。同書が300万部を超える販売数になった。その作者をめぐって話題になった。次作「日本教について」には大変学ぶところあった。
山本氏は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている。
作られた土器や土偶自体が、ものとして神になってしまう。神に署名を入れるなど恐れ多いいことになる。考えてみれば現代社会では仏像にまで名前を入れて、商品にして売り出している、仏師という作者は一体このあたりをどのように考えて居る人間なのだろうか。
この時代の堕落そのものではないか。作品というものはすべて、詠み人知らずがすがすがしい。名前など関係なく、作品そのものの価値を味わえる教養がなければならない。この作品は1億円するから素晴らしい。などというお宝鑑定など現代人の卑しさを、のぞき見るようなものだ。
「私絵画」は個人の中に究極までに入り込むものであるが、入り込めば入り込むほど、個人という固有性は消えて行くものだと考えて居る。私であればあるほど、詠み人知らずに近づいて行く。個性というものの否定である。気団代美術の、個性尊重を否定するものである。
日本の戦後教育は個性尊重であった。それは明治政府の国家思想によって、個別性が否定された反動である。人間尊重である。それはそれで素晴らしいことではあった。私も小学校で個性を大切にしなさい。など言われた思い出があるが、あのときの個性とは、どんな個性だったのかと思う。
小学生の個性はあくまで個別性である。人間1人1人違う。その1人1人が大切にされなければならない。それはその通りである。だから1人1人が違う絵を書く必要があると言うことだった。書写教育からの脱却のはずだったわけだ。ところがどうだろうか。未だに美術学校の受験ではローマのくだらない彫刻のデッサンをしている。
あのくだらなさで、私は美術大学に行かなかったのかもしれない。中学一年生の時に、足の石膏デッサンを描いた。同じ歳のピカソの足の石膏デッサンを見て、たいしたことはないと思ったものだ。しかし、絵を描くと言うことは石膏デッサンをやるようなくだらないことではないと、子供ながらに分かっていた。個性尊重である。
絵を描く面白さの特徴的なことは、自由に描けると言うことだ。何でもありというところだ。何でもありと言うことだから、自分の内的な世界に入り込んで行く。私の場合で言えば、現実に目の前の見ているものを参考にしながら、主に記憶の中の世界の絵を描いている。
あくまで絵を描いている。現実を描いているわけでも、記憶の情景を写しているわけでもない。そうした材料を元に、自分の考えて居る絵を描いている。それは何でもかまわないものである。画面の上という範囲での、全くの制限のない自由である。
自由になればなるほど、「私」と言うものが表出されると考えて居る。無心になり、絵を描くことで自分が小脳的な反応になる。反応をする自分というものになり、大脳的な思考を抑える。その結果画面に残されたものは、最終的には、自分でありながら無名のものになる。
それは詠み人知らずである。私自身が誰が描いた絵なのだろうという状態を目標にする。ある意味自分というものに入り込めば入り込むほど、自分という個別性から抜け出る。このように考えて居る。個人が消えて行くことで、全体にに近づいて行くことで、作品は普遍性を持つ。
そうあると言うことではない。そうありたいと考えて制作していると言うことだ。だから署名はしない。10年以上署名作品はない。いくらか署名作品があるのは画廊で頼まれた場合、絵にサインを入れざる得ないからだ。私の絵は誰でも使ってかまわないという意味でもある。
名前がないのだから、著作権などない。その意味では山本七平氏よりも徹底している。まあ、イザヤペンダサンのように大宅壮一賞など貰わないから、名前がなくとも問題はない。そもそも、笹村出という名前自体が、無名と言うことでもある。
人間は詠み人知らずに生きた方が良い。名前というものによって、作品は商品化する。作品が生活の糧になる。そして自分の名前の作品の模写を始める。そのために、大抵の絵描きが自分の画風に縛られて成長できなくなる。日展では同じ絵を描かなければ評価されないなどと言われることになる。
私絵画は詠み人知らず絵画である。詠み人知らずを意識して制作してゆく。自分というものの奥底にある個性というものは、実は人間であると言う普遍に近づく。それが絵を描くという行の行く先なのではないだろう。