東北アジア共同の家
「東北アジア共同の家をめざして」姜尚中著を再度読んだ。2001年に書かれた本である。それから25年が経過して、共同の家は遠のくばかりである。その理由を知りたくて、もう一度読んでみた。結局、韓国、北朝鮮、中国、台湾、そして日本の分析が大きくずれていたとしか言い様がない。
姜尚中氏は鋭い頭脳の持ち主だと思う。論理も整合性がある。共同の家の構想には当時興味があったし、一つの方角と思えた。しかし、私の考えていた東アジアの連携とはずいぶんと違っていた。中国や北朝鮮がどう言う国であるのかを、考えてみなければならない。そして、在日韓国人朝鮮人のことも。
日本人という問題を考える必要がある。在日している外国人であれば、確かにその人の血族のような物は、日本人ではないのであろう。人間が国を超えるべきなのかである。絵を描いているとつくずく自分が日本人であることを感じる。自分の生まれ育った物を抜きに絵を描くことは出来ない。
在日韓国人であるという立脚点というものもある。姜尚中氏もそうなのであろう。それは日本人とはかなり違う物だ。その独特の生い立ちと血族によって姜尚中と言う人間が出来ているはずだ。そこから考える北朝鮮の問題は、日本人当物が考える物とかなりの距離があって当然である。
これはどちらの考えが正しいのか。というようなことでは無い。どの方向に世界は向かうべきかなのかは一人一人が考えるほか無い。私には、日本人であることに根ざしてしか、日本人という在り方を深めることをとおしてしか、世界のことは考えられないのだと思う。
ヨーロッパは1993年11月EUと言う連合体になった。壮大な実験である。何度も戦争を繰り返してきた、利害も対立も多々ある。思想も違う。経済の形態も様々な独立した国家が連携することが出来るかである。実験は今も継続されている。1999年通貨統合。もう28年が経っている。
英国はEUからの離脱をした。2016年6月23日に実施された国民投票の結果である。英国の国民投票結果は極めて残念だったわけだが、こうした投票結果になった理由は国内に増加する移民問題が大きかったと思われる。イギリス国内に貧困層が形成され、移民に対する攻撃が起こる。
それはその後全世界に広がる。その原因は南北格差の問題。戦争の勃発。飢餓の拡大。大きな時代の流れの中で見れば、資本主義末期の世界の行き詰まりの結果なのだと思う。その行き詰まりを導いている物がコンピュター革命。経済の構造が変化を始めている。
ドイツは外国人の移民を一番多く受け入れた国である。私がフランスに居た頃、すで1970年代すでにドイツでは一次産業労働者不足が言われていた。ドイツでは農家になるだけで生活は出来るようになるので、ドイツに帰って農家になると、パリのボザールの同級生が話していた。
ドイツは移民の受け入れに50年間一貫して熱心であった。ナチスドイツの過ちに対する反省と言うこともあったのだと思う。そして何より労働者不足である。今の日本と同様の事態が、すでに1990年の東西ドイツの統一時点で起きていたことだ。統一することで、東ドイツの労働力が加わり、ドイツはめざましい経済成長が起きた。
それ以前の西ドイツは、産業従事者が不足していた。経済成長がめざましい中で深刻な労働者不足が続き、それが経済の停滞を起こしていた。とうぜん、外国からの移民を受け入れてそれを補うことになる。ドイツではそれを歓迎する国民的合意があったといえるのだろう。
しかし、ドイツは1950年代からガストアルバイターと呼ばれる移民労働者を1000万人以上受け入れている。その後、冷戦崩壊後の混乱から東欧諸国や旧ソ連から100万人以上、2015年の難民危機でも100万人以上の難民が流入した。繰り返した衣料移民を受け入れたドイツはどうなったかである。
すでに人口の4人に1人が移民系となっており、さらに2023年には「第3波」ともいえる35万人の難民流入が起きている。主に収容施設に責任を持つ地方自治体から受け入れは限界との声が上がっていた。人工の25%外民で出来た国ドイツがどう変わったかである。
ドイツはイスラム原理主義によるテロが頻発するようになった。そして外国人が低所得者層を形成する。犯罪の比率が高まる。不法移民対策として、強制送還が行われるようになった。すべてが、ドイツの衰退を表すものと考えざる得ないの。25%が移民の国になり、ドイツの政治も方角が錯綜し、複雑な連立を行い混迷を深めている。
GDP成長率の鈍化が目立つ。ロシアの天然ガス依存からの脱却が出来ない。原発ゼロで不安定化したエネルギー供給の行き詰まり。自動車のEV競争での脱落。少子高齢化、DXの遅れとハイテク人材不足、何か日本と変わらない状況なのだ。移民では労働者不足を補えないと言うことなのだろう。
日本の行く先を見るようでは無いか。企業にしてみれば安い労働力を確保して、労働力不足を補おうとする。しかし、それに伴う社会全体の社会福祉をはじめとした、社会の整備が追いつくことは無い。教育、医療、食料、国の基本的な枠組みが、むしろ新しい労働者によって崩れて行く。
企業は移民労働者の受け入れに伴う、社会整備の税金を負担していない。むしろ日本では法人税を下げることで、企業の国際競争力を高めようとしている。結局のところ移民労働者が不当な労働環境に置かれることになっている。ドイツ以上に移民に対する受け入れ体制の無い日本が、このまま移民を受け入れることは難しいだろう。
国家の問題を抜きに、つまり日本という国はどう言う国で、どこに向かうのか。このことを煮詰めない限り、アジア共同の家の構想はあり得ないと言うことだと思う。まず日本がどう自立できるのか。この解決を優先させる必要がある。どうにもならない日本が、問題をアジア共同の家に押しつけることになりかねないだろう。
足りない物を、海外に求めたのが、日本帝国主義の大失敗だったわけだ。まずは日本という国が、どう言う国になるべきなのか。ここを考える必要がある。それはある意味では参政党と同じような考え方である。ただ参政党や日本の多くの右翼の人の言う日本人というものが、よく見えないので、比較しては考えようも無い。
私の考える日本人とは、日本列島で食料を作ってきた百姓のことだ。それは今や失われつつある人たちである。100年前柳田国男氏が椎葉村で出会った人たちのことだ。自給自足で生きることの出来る人たちである。そこを原点として日本人を考え、学び、自分もそうなれるように努力をしている。
そうしたかつての日本人でありたいという思いが強くある。それは明治以降の欧米に向けて背伸びをした日本人では無い。覇権主義などと一切関係の無い、自足できる人間である。私の考える東アジアの連携は、資本主義を越えた共に生きる、競争の無い世界のことだ。