議論を嫌う風潮

今回の小田原はANAできた。朝8時5分発で、小田原の家に3時についた。飛行機は富士山の見える側の窓側に座ると決めているのだが、羽田行きは大島よりも三宅島寄りを通過する。富士山は遠くに見える。さすがに7月25日は雪がない。
富士山を飛行機から眺めたいのは絵を描いているのだ。というか、富士山を見ると反射的に絵を描く目になってしまう。24日のぼたん農園の稲刈りが終わってから、富士山のを描いていた。その画面が運よく確認することができた。
富士山を何故描くのか。こういうことを考えていた。富士山のそばで生まれたという事もあるかもしれないが、富士山の持つ精神性に感じるところがある。富士山はご神体である。何故、ご神体と感じるようになったのかというあたりが、自分の中にある何かを刺激する。
そんなことは絵とはまるで関係がないとする絵を描く人が多いいだろう。しかし、富士山を描く人は少なくない。最近では文化勲章を頂いた、絹谷幸二氏の絵には現れる。つまり、日本人の記号なのだ。このあたりを本当は議論をして深めたいところだ。
しかし、そんな議論を避ける傾向がある。議論をすることで、考えが深まるという事があると思うのだが、最近議論をしたことがない。そういえば世間でも議論している姿を見たことがない。口角泡を飛ばす場面に出会わない。裕行、とかいう人の論破というのは良くない。
全く生産性のないこと論破ばかりだ。要するに揚げ足取りをして得意がっている場合がほとんどである。それでもついついそういう場面を見てしまうのは、私が議論好きだからだろう。議論はまず言葉の定義が重要である。議論をしてもそのずれが多すぎて、議論が不可能になっていると感じる。
だから、揚げ足取りというのは、相手の主張する言葉の矛盾を突く方法だ。相手をへこませて黙らせるには役立つが、相手の主張のまだ表面化していない内容を引き出し、昇華させる役には立たない。議論は本来互いのために行うものだ。
強い主張をしている人に同調してしまうことが多い気がする。おかしい、自分の考えとは違うと考えても、ついつい相手の主張を否定する意見を言わない場合が増えている。反ワクチンの人と、ワクチンについて議論する場面は何度も出会っている。
なぜワクチン反対なのかを聞き出そうとするのだが、それが出来ない。ワクチンというような、まだ未解明の部分のあるものに対して、どう対応するかは実は人間の生き方にかかわる重要なことだと思う。ところが、これがどういうわけか、議論にはならない。
なぜワクチンを打つべきでないと考えるのですかと聞いても、どうせ分かってもらえないから、話しても無駄だという空気感が出る。本当に無駄なのだろうか。たとえ陰謀論の主張でも、私には良く分からない陰謀論と信じる根拠は知りたいところだ。
陰謀論派の人にしても、主張しても理解されないと考えているのだろうが、口にすることで自己確認が出来るはずだ。別段ワクチン反対派の人を否定するつもりもない。ただ同じ社会で生きてゆく上で、利害が対立している。ワクチンを打たない一番の問題点は医療崩壊である。
これはワクチンを打とうが打つまいが同じである。誰もが交通事故に遭えば、助かる命も失われる可能性が出てきている。たぶん反ワクチンの人は風と同様のコロナで、何故大騒ぎして入院させるのかと考えているのではなかろうか。
確かに病院に行く必要がない、コロナ患者が増えているのは事実だ。そういう人が検査のために発熱外来に行き病院が満杯になっている。やっと政府も検査キットを配って自己検査をして、陽性であれば電話対応で、自宅療養で済ますという方針が出てきた。
はっきり言ってコロナが変異を続けていて、医療も対応が変わっている。しかし、病気に対する恐怖感は最初に植え付けられたままだから、熱が出ればパニックになる人はいくらでもいるだろう。こういう状態を解きほぐすためには論理的な議論が必要なところだ。
故安倍氏の国葬もきちっとした議論にしなければならない。少しも議論がないまま、総理大臣が独断で決定してしてしまった。悪い風潮である。安倍氏の功績は歴代の総理大臣に比べて、傑出したものと言えるのかである。これは自民党の中でも意見は分かれる所だろう。
最悪の総理大臣と考えてきた私にしてみれば、とんでもない人なのだが、この人の功績を評価する人は何がどう良かったのかを、日本の現状を見て、議論を展開して欲しいところである。今のところ誰もが総理大臣のお陰こんなに良いことがあったと言えるようなことを示していないように思う。
そもそも成果にあげられているアベノミクスがどうして評価できるのかを数値をもって示してもらいたい。アベノミクスの第3の矢新産業は何だったのかを示してもらいた。私の見る所では日本の産業の中で矢の放たれていた、蓄電池、太陽光パネル、半導体などが、むしろ後れを取っていく過程の責任者に見える。
最近の若い人たちは、意見が違う場合、議論をせず多数決にするらしい。じゃんけん民主主義というらしい。決めた責任者を出さない優しい工夫らしい。議論をするのは問題を明らかにして、第3の道がないかを模索するためだと思う。
問題には必ず第3の道がある。対立する両者が譲り合って、受け入れ可能な案はある。これを否定してしまえば、民主主義というものは成り立たなくなる。実際ロシアの主張は民主主義的解決を拒絶している。そうでないのであれば、きちっとウクライナの穀物輸出を議論すべきだろう。
もめ事を避けて、そのことを議論しないままでいれば、武力として爆発することになる。議論の結論は第3の道を探るためのものだ。尖閣問題を議論にあげないのは、自分を少しも譲らないという日本の態度にある。そもそも、尖閣諸島は日本のものではなかった。
尖閣諸島は琉球国に所属したとはいえるのだろう。琉球国は日本でも中国でもなかった。琉球国は日本に一方的に帰属させられた国である。だから、尖閣も日本に帰属するというのは立派な主張であるとは思う。一点の曇りもないかと言えば、いくらかはあるのだろう。その辺をきちっと話し合い解決するという、民主主義国家としての当たり前の態度をとるべきだろう。
議論を避けて良いことは何一つない。議論を避けることは一見平和的な解決に見えて、行き着く先は問答無用の暴力への道という事なる。ロシアのような軍事侵攻もあるが、普通はごく些細なことにしても、どちらかの権利が無視されている。