水彩画を描いているときの状態

絵を描くとき何も考えない状態だと思う。無念無想と言うことがあるとすれば、絵を描くときが一番それに近いと思われる。はっきり言ってどんな状態だかは無念無想に近いからよく分からないと言うほかないのだが。ボーとしているようでも無く、集中しているようでも無く、ごく平静な状態であり、絵を描くことに反応している。
絵を描く反応する機械のようになっている。あの樹木をビリジャンで塗ろうと考えて、ビリジャンの筆に絵の具を付けていて、それが画面に進んだ途端に、空に塗っているというようなことが起こる。あり得ないようだが良く起こることなのだ。
頭の判断で描いていれば、そういうことは無いはずだが、筆が画面に近づく頃には、やるはのことを筆が決めている。おかしいと思うが、それに従うことにしている。変だなと思いながらも、頭の判断より筆の方にしたがうことになる。
木では無く、空に筆が行ったとしてもそれを止めるような意志は働かせない。それも何か意味があるのだろうと、自分の中の何かがそう思っている。その判断を脳では行わない。腕に任せている。筆の反応に任せている。それが良いのか悪いのかと言うことも考えない。
ある意味アクションペインティング的な描き方に見えるかも知れないが、それとはまったく違う。椅子に座ったまま静かに描いている。アクションはない。勢いに任せると言うことはまず無い。一本の筆の絵の具が切れれば、大抵は筆を変えて、新しい筆で次の色を作り塗る。
画面の上で反応が始まると、連鎖的に反応が続く。ああ塗ればこう塗るほか無いと言う連鎖で、画面が動いて行く。だから、10本ぐらいの筆は色事に分けて使う。画面ではちょっと前に思ってもいない展開が始まる。その展開に従って進める。
そんな絵の描き方があるのかとも思うが、ともかくそう言うように毎日絵を描いている。大抵のやることは訳が分からない。どだい、一枚一枚の繪の繋がりが無い。思いが湧いて来た時に腕の方が先に実行する。だから、石垣島で富士山を描いている。
結果は良いときもあれば、だめなときもある。ただ何かがわいてきたら、必ず実行する。それで絵が台無しになることはそもそも無い。良い絵を描こうとしているわけでは無いからだ。良い絵と考えている自分の考えでは至れない世界に、未知に向かって描いている。羅針盤だけが頼りの目的地の見えない自由航海である。
出来る絵が良くなればそれも良いのだが、絵はそれだけではない、自分で無くなることが一番まずい。自分の描いたものだと言えるような絵が望ましい。この絵が自分であると言えるような絵であればそれで先ずは良い。そういう絵が飛び出してこないかと、あらゆる手段に任せている。
絵を描くときに良くしようと思うのか、悪いところを直そうとしているのかと言えば、自分では無いところを無くそうとしている。自分らしくない、自分と適合しない、これを無くして、そして自分らしいものを探して進める。
絵のことを考えているのは、アトリエに並んでいる絵を見ていてのことだ。その時は脳が考えている。あの絵は良い。あの絵には小説がある。あの絵は明るくて良いといった人がいたな。等ありとあらゆる事を脳が考えている。ああ直せば良くなるとか、あの良いところを広げようなどとも考える。
様々小賢しく頭をひねっている。最近アトリエで一番考えていることは一枚の繪は一つの小説だと言うことだ。物語があり、哲学がある。絵という世界の意味が明確に読み取れる。その絵を見た人の世界観に影響があるようなものが絵だ。
そんな絵を目指したいと思う。井伏鱒二の小説が好きだ。水彩画も描いた。小説にある世界が残念ながら井伏鱒二の水彩画には無い。やはり絵画は技術的なものなのだ。その人間に世界観があるとしてもその世界観を画面に表すためには技術が必要になる。
水彩画の技術は奥が深い。まだその表現法は研究つくされていないと思う。実に多様な表現が可能だ。特に日本の風景の色彩には最も相応しい材料だと思う。ただ、英国風の水彩技法では無い。あれは英国の色彩の表現に適合している表現法だ。
浅井忠の日本の風景画は日本の色彩では無く、フランスの色彩である。日本には日本独特の色彩がある。それは梅原龍三郎や中川一政が油彩画や岩彩では試みた世界だ。その試みは実は水彩画の方がさらに日本らしい色彩に近づけると思っている。
偉そうなことだが、日本の色彩に水彩画を反応させる方法が少し見えてきた気がしている。水彩画で自分の心の中の風景を表すことが近づいてきたような気がしている。まだ距離がある事は自覚しているが、この方向らしいという希望が生まれてきた。
アトリエでこの絵の続きが見えたと思いアトリエカーで出掛ける。先ずはそこから始めようとする。ところがそれをやることもあれば、違うことを始めてしまうこともある。それでも、その絵を描く作業には、アトリエで脳が考えていた自分というものことが役立っている気はする。
当然だが、この自分というものが難しい。だから、何が自分らしいかなど、頭で考えたところで無駄だ。やってみない限り分からないから、書き出した後は反応に任せることにしている。自分の小賢しい頭脳が描いたものなど知れている。自分が思いもしなかったところに、自分を見付けられるかもしれない。
では感性に任せているかと言えば、それとはどうも違うところのようだ。感覚的な反応とは、どうも違うものに動かされている。普通の感覚であれば景色を見て美しいから描くというようなこととはかなり違う。美しい景色を感心してみている。その中で、記憶に残る部分が蓄積されて行く。
その美しいはたぶん普通に人とは大分違う。土の色がヤケに美しかったり、枯れ草の色に驚かされたりする。色に反応することが多いのだが、その色の調子の美しさにも惹かれる。色は隣に来る色でまるで変わる。ある光の加減でその色が記憶に残る。
のぼたん農園にいつもいると、その様子がこびりついてくる。その日その日で様々な表情を表す。それが積み重なり、のぼたん農園の記憶が出来る。その記憶が絵に現われてくる。それはいつどういう回路で絵に出てくるのかは分からない。思わぬ絵を描いていて現われる。
例えば富士山を描いていて、富士山の山肌にのぼたん農園が出てきたりするから驚く。それに従って、富士山の絵が、のぼたん農園の絵に変わったりする。そんなとんでもないことばかりしている。終わりは一つになるのだが、変なことばかり繰り返している。
絵を描くのは自由だ。自由に物語を紡いでいる。絵の上ほどの自由というものはない。だから絵を描くのが好きなのだろう。のぼたん農園を作ることもおもしろい。田んぼをやることもおもしろい。しかしその自由は限界のある自由だ。
ところが絵を描く自由は何の制限も無い。どんなことをやろうが、通俗であろうが、人まねであろうが、私の勝手だ。私の責任だ。これほどの自由はほかには無い。全くの自由でありながら、残念ながら自由には描けない。自分の絵にはならない。自由にやったと言うことがみて分かれば、それだけでも良いかもしれない。
まだまだとしか思えないが。わずかずつだが成長はしている。近づいている気はしている。だから、100まで描ければと本気で思っている。年々その意欲というものは衰える。絵を描けると言うことには意欲が減らない。何かまだ先がある気がしてくる。もっと先にたどり着きたい。