日本人は無宗教なのか。

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日本人は宗教を問われて、「自分は無宗教だ。」と答える人が大半だろう。日本人は無宗教という言葉は、私が小学生の頃によく言われた記憶がある。外国では無宗教というと、信用されないという話がされた。私自身も信ずる宗教が無い、無宗教者だと思った記憶がある。このことは日本人の普通の意識だと思うが、果たしてそう言って良いのだろうか。
何故日本人が無宗教と感じるようになったのかを考えてみる必要がある。私は山梨の藤垈にある向昌院という曹洞宗の山寺で生まれた人間で、しかも、現在曹洞宗の僧侶である。だから、当然仏教徒である。仏教の教えやお釈迦様を信仰しているのか、坊さんとして暮らしているのかと言われると、違うかも知れないと言わざる得ない。
それでも道元禅師の教えに従い生きているつもりである。道元禅師は宗教家と言うより、哲学者としてとらえている気がする。お寺の住職さんが仏教徒なのかという疑問がある。神社の神主さんが神道の宗教者なのかという疑問がある。日本では宗教者と呼べる人は数少ないのではないか。日本人の宗教という枠組みがどうも、欧米のキリスト教の信仰とは意味が違うと感じる。
江戸時代のキリシタンの人達は確かに信仰者である。オウム真理教の信者も信仰者である。一向一揆の真宗の信者も信仰者である。統一教会の信者も信仰者なのだろうが、騙されているだけなら信仰者では無い。創価学会の信者なら信仰なのか、現世利益なのか。少し疑問である。
まず何を宗教と考えるかが明確でないと、宗教の信者であるかどうかは見えないだろう。原始宗教というものがある。多分縄文時代の日本人も祈りの気持ちがあっただろう。アイヌの人達にはアイヌの祈りの思いがある。ここに在る祈りの気持ちは自然宗教と呼ぶものだ。
この自然宗教を一応外して、あなたは何か宗教を信仰していますかと聞いているのだ。だから、日本人の大半の人は、無宗教と答えるのが当たり前の事になるのだろう。しかし、「日本人とユダヤ人 」山本七平イザヤペンダソン著では、日本人の大半の人は、日本教の信者だと解き明かした。
日本人は原始から継続する宗教を持ち越して、近代化した希な人種なのだ。柳田国男氏の民俗学がそのことを解き明かしている。多分縄文人も私にも同じ樹木や岩や水に対する畏敬の念があると思われる。このような自然宗教を抱えた民俗の中に、無理矢理あてがわれた宗教が仏教なのだ。
ややこしいことには、明治政府は無理矢理天皇を持ってきて、国の神にした。そのために神道を国教にしてしまう。廃仏毀釈である。恐ろしい暴挙である。一見村の氏神である神社や祭りと、国の指定した神社とは似てはいるが、まるで違うものなのだ。そもそも江戸時代に神主、神官などと言うものは存在しない。
明治政府はこの天皇を神とする君主制を、国民に押しつけた。それに合せて神道を国教にしようとしたのだ。教育は臣民教育である。天皇を神として、それに仕える日本人を作り出そうとしたのだ。この明治政府のメチャクチャな手法に、日本の宗教者は仕方がなく、追随したのだ。新たな国教である神道の中心者になった天皇家の菩提を弔い、寺院の継続を手にしたのだ。
そもそも江戸時代の天皇家は伊勢神宮とは何の関係も無い。明治政府が作り上げた即席の神官に仕立て上げられたものだ。本来の天皇家は神官と言うよりも、日本の伝統文化と、水土技術と、農業技術のしきり役の家、と考えた方が近い。
この明治政府の急ごしらえの帝国主義のために、日本の宗教はめちゃめちゃな混乱が起きたのだ。特に村の鎮守様と国家神道とは何の関係も無いのだが、なんとなく神社であるから、似た系列ぐらいに受けとらえられるようになる。日本人は天皇家の国家神道を信仰したことなど一度も無いにもかかわらず。
そのために、日本人は日本教の信者ではあるが、特定の信仰はないという不思議な状態になった。ここに、既成の宗教が存在するので、日本人の宗教はごっちゃで訳の分からない話になる。曹洞宗の坊さんである私が宗教者であると断言することにためらうのもここに在る。
これは宗派宗教とは異なる。つまり、キリスト教のカソリック○○派の信者ですという意味や、自分はオウム真理教の信者ですというのは、縄文人の祈りとは異なる、教祖が存在する宗派信仰である。日本人の多くの人が、無宗教というのは、オウムや統一教会の信者ではないという気持ちだろう。
一方から言えば、日本人の心の中には縄文人から持ち越してきた祈りはある。神とは呼ばずとも何ものかに、手を合せる。頭を下げる祈りがある。縄文人も明日は沢山の食べ物が手に入りますようにと、自然を司る何かに祈りを捧げたはずだ。
こうした原始宗教がそのまま奈良時代まで持ち越されていたところに、仏教が入ってきた。それが沖縄の琉球王国に到達するのは、江戸時代である。各地域地域で仏教の広がりは違ったのだろうが、仏教の流入に従って、徐々に死者の弔い方法が、仏教式になって行く。
古代社会では死者は恐ろしいものであった。死は理解しがたいものだ。死は感覚的な把握が出来ないものであるから、それを都合良く仏教に任せることにして、死という理解不能なもの、死者という恐怖のものを、仏教に片付けてしまった。奈良時代から仏教での弔いと言うことに、ご都合主義で進められるが、それは原始宗教と混合されたものだった。
本当に仏教が死を仕切ることになるのは江戸時代の檀家制度の成立以降と考えて良い。奈良時代から戦国時代までの間は、原始宗教と仏教が折り重なり、存在していた時代である。死も死者も死後のことも、理解しがたい恐怖を伴うものだから、お寺に任せて安心しようとした。
宗教は死という事への向かい合い方だ。死という理不尽で、避けがたいものをどう考えれば良いのか、人間の理解を越えている。すべてが失われると言うことが待ち受けている中を生きている。この絶望をどう受け入れるか。人間の生きる有限性をどう考えるかである。
それは原始宗教であっても、縄文人であっても人間であれば現代に生きるものと何ら変わりない、大問題である。ただのサルである間は、死というものを想像し考えると言うことは無いだろう。人間が進化し、想像し、思考するようになれば、死は究極の大問題になる。
その向かい合い方に宗教というような祈りの心情が生まれる。死後の世界を想定してみたり、生まれてくる前の世界を想像してみたり、思考を広げて行く。そして、どうしても理解不能なこの過去と未来を、どのように考えれば良いかという所に宗教が誕生してくる。