日産ゴーン会長の犯罪

   

日産ゴーン会長の犯罪が明らかになった。驚くことはなかった。そうだろうと思うばかりだ。企業というものは自己利益の為に動いている。建前としては社会貢献などきれいごとを言っているが、現代の企業は企業のことだけになっている。一企業主義、国際競争力の結果という事なのだろう。日産のゴーン会長が内部の謀反にあったという事になる。50億円というような所得隠しをした犯罪者でも、テレビでその手腕を評価する人が相次いで登場している。ゴーン氏は有能だったというのだ。中国を高度成長に導いた、登小平氏は「白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕る猫が良い猫だ」と時代の先を読んだ名言を吐いた。ゴーン氏は黒い猫だったのだろう。そもそも10億円の年収を貰うというので、日本社会ではびっくりしてしまった。当人は堂々と世界の経営者の給与水準から見れば、別段高額ではないと居直っていた。倒産しかかった日産の建て直しを達成したほど優秀なのだから、それに見合うお金は当然のこと。世間はそういうものかと説得された。ところがその裏でもう10億円誤魔化した。どれほど有能であろうと、そんなにお金をもらう必要は全くない。世界がどんな意地汚い世界に変わろうと、日本は美しい国であってほしい。

この嫌らしい風潮がいまだもてはやされているホリエモン主義というものであろう。儲かれば正義という考え方だ。こうした考えが蔓延している。これが能力主義の最終形であろう。この背景にある考えは、無能な人間は屑だという考えになる。無能であろうが、有能であろうが、人間としての価値は変わらない。これが従来の人権に対する考え方である。しかし、人間には価値のある人間と、価値のない人間が存在するという事になり始めている。省庁の障碍者雇用のごまかしなど、まさに本音が暴露された事件であろう。能力主義は最後の差別なのだ。能力主義が突破できない限り、世界は対立が深まり、爆発に向う。芸術の分野は時代の先を行くと言われる。天才画家によって、新しい絵画が確立された時代が20世紀であれば、つぎは自分の為の芸術の時代になる。装飾絵画とか、イラストとか、アニメとか、実用の平面作品は職人として残るが、芸術行為が内的な別分野になる気がする。絵画の芸術としての意味は、作品を制作するという側の意味に集約されてゆく。

つぎの時代は、能力主義とそれに抵抗する内向きに生きる人間の時代なのだろうか。企業社会が能力主義と利益主義に特化してゆく中、人間が生きるという事はまた別のものとして、分離されてゆくという事ではなかろうか。人間が生きるという原点は別段優れた人間だけのものではない。能力が無かろうが生きる権利もあるし、そういう最低限の条件が無くなれば、社会は成立していない。今後社会の分断が深刻化し、経済格差もさらに大きく広がるであろう。分断された社会は力で制御する社会になる。富裕層がいつも警備に取り囲まれて檻の中で豪勢に生きる社会である。対立は深まり、最後には暴動や革命に至るに違いない。これはマルクスの予測した未来に似ている。そうなる前に社会は変わらなければならないはずだ。それが、修正された新資本主義のはずであった。利益を独占せず、分かち合う資本主義。有能な人間こそ、このままでは世の中不愉快なものになると気づかなければならない。有能であるからこそ、能力のないものを助けるような人が現れなければならない。

残念ながら最近、かなりあきらめ気味である。ゴーン氏やホリエモンに勝てそうもない。ああいう、厚かましい人間と対抗することを考えるだけで、疲れて諦めてしまう。もうそういう事は忘れて、弱い者同士力を寄せ合い生きるしかないのではと考え始めている。敗北主義かもしれないが、敗北しても自分の人生を良く生きたい。こういう能力主義の世界になると、むしろ怖いのは弱い者同士のいがみ合いである。弱いものは虐げられて、猜疑心が強くなり、汚くなりがちである。弱い人間こそ、清らかに生きることができるかである。その為には自給生活を大切にする必要がある。農業分野にも、おかしな国際競争力が叫ばれ、ホリエモン的新規就農者が登場している。そういう人間がもてはやされる社会。こういう意地汚い人間を地域農業に近づけないことだ。そうしないと、地域の農業がめちゃめちゃにされることになる。悪貨は良貨を駆逐する。ホリエモン農業者が、心優しい新規就農者を食い物にすることになりかねない。最近これを一番恐れている。

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