忘却のフクシマ
人間という物はそういうものだとは思ってはいたが、フクシマで起きた原発事故が忘却に霞んできている。さすがに原発事故だけは、社会に決定的な痕跡を残すと思っていた。所が、4年という歳月は残酷なものだ。原発事故がなかったかのように原発再稼働が進められる。私の中に巣くったどうしようもない、重荷はむしろ年々深刻に絡みついてきているのに。それは放射能とかいうようなものではなく、日本という社会の無残さである。時々、まだ福島からの避難者は20万人もいるなどという記事を読む。あきらめている自分に嫌気がさす。文明への絶望と言えば、大げさであるが、原子力というものを上手く利用した物が勝者になる文明が、許されるのか。安全対策を軽く見て、幸運に寄りかかった安上がりの発電で勝者になると言う仕組みはひど過ぎないか。出てくる廃棄物の処理法すら分からないのに、稼働を続ける恐ろしい文明。
考え出せばきりなく、怒りは湧いてくるが。それは自分に返ってくることになる。自分には何もできなかったし、今も何もできていないでいる。フクシマで直接的に事故に遭遇した人達の現実は、やはり遠くの事だったとしか言えない。悲しい事であるが、当事者の意識からは遠くにいる。富岡から避難した家族のみなさんが、預かった犬に会いに来た日の事を時々思い出す。受け止めきれない現実に遭遇した人の、困惑。混乱。空白。ダイ君の事だ。ダイ君は犬だから、全く恨む気持ちが無い。そして受け入れる。犬はすごい生き物だ。ダイ君はすべてを受け入れて死んでいった。今飼っているセントバーナードのフクちゃんは南相馬の避難地域から来た犬だ。私が飼い主を捜しに行ったときには、フクちゃんの家は立ち入り禁止地区のなかで、近寄れなかった。先日やっと解除になった映像が出ていたら、フクちゃんがいたあたりがテレビに映った。飼い主はどうしても見つからなくなってしまったけれど、フクちゃんの猛烈な甘ったれは、どうも置いてきぼりをされたときの不安。
フクシマの満開の桜が、今年の春もテレビで何度も流された。人が去った町の桜。原発周辺に今暮らす当事者は、フクシマで起きた事を充分に認識してもらいたい。その上で再稼働を認めるのであれば、それは仕方がない。一義的には当事者の選択である。その当事者はせめて30キロ圏内は地元住民として認めるべきだ。緊急避難をしなければならない人達である。故郷を捨てなければならない人達である。周辺当事者で原発が嫌な人には移転費用を出してもらいたい。また、事故が起きたときには、都会の人達の為の電気の為に、こんなひどい事になったとだけは言わないでほしい。自ら原発を選択した当事者という事になる。その事だけは自覚して、再稼働の判断をお願いした。地元当事者が嫌だと言えば、原発は稼働されないのだから。原発がなければ維持できないと考えるふるさとの哀れさ。
忘れ去られること。忘れなければ、人間は辛くて生きて行けない。しかし、飯館から来た2匹の猫は確かに、我が家にいる。あのとき預かった鶏も何羽かはまだいる。そういう事はフクシマの私の現実である。あの事故のフクシマは、社会という忘却の仕組みに消えようとしている。忘れ去られる恐怖。置き去りにされる恐怖。人間が生きて行くと言う事はどこか悲しい。私はせめてそいう事を絵に描きたい。今大井町の篠窪という所を書いている。ここは福島の飯館や、浪江のように美しい里山風景である。以前農薬に汚された、桃の花のどこが美しいのかと言われた。いわば放射能に汚された美しい日本の里山風景である。この風景が今ここに残っている。美しい国を作ってゆくという事は、重たい事である。哀しいような事だ。それでも何とかやってゆこうと言うことだろうか。