水彩画の描き方
篠窪に毎日通って描いている内に、幾らかわかったような気分になっている事がある。それは自分は確かに見ている物を描こうとしている。目に映っている物を、どいうすれば画面に移行できるかをしている。所が描写ではどうにも近付いてくれない。そこでどんな感じで、実際に見ているのかという事を考える。何か一つの事に偏ってみている。例えば流れる風に揺れている絵だと言う事に目が行くとする。ああ今日は風がいい。そういえばあの峰に来ている風は徐々に、谷に下りてきている。その風の道は、あの枝が揺れた、そして次はその下の木だ。今は、下の草原も揺れている。風の道は、こちらにも向かっている。そのように風というものを辿るように見ている。それは草の緑の黄色っぽさに目がむけば、今度はこずえの新緑である。随分赤みを帯びている。新芽は白いものから、赤いものまである。キューイの新芽は本当に唐突だ。などなど。
連想ゲームの様に想念は、次々のうつろい歩く。それを無理に押しとどめることなく、流れるにまかせながら、画面の上でも、筆はその流れを追う事になる。ある流れに乗ると言う事は、他の見えているはずのものが存在を軽くして行く。あの家の屋根はトタンだな、等と解釈が入ると、益々、画面全体の総合性は失われて、一部の意味に意識が集中してしまい、他の事は見ていない。多分、長年絵を描いてきた経験から出た技術で、この屋根を画面内で処理するにはどういう事になるのかなど、くだらない事を考えている。実際に絵の具で画面を作ってゆくという事になった時には、究めて技術的な自分に変わる。絵としてやるのは、とか、絵になるには、とか、こういう気持ちが自分という人間を無意識に支配している。しかし、次の段階で絵作りに入ると、自分が学んできたものに絵が支配されるから、避けようと言う気になる。今見ている感じだと、押しとどめる。いつものやり口でやらない事だと考える。
そして、見えているという事に戻る。この見えているという総合的な印象を、細部にこだわることなく、絵に持ってくるには、どうすればいいかという事になる。そこで実際にやるのは、移すという事と、自分の癖の様な物での絵の処理とのせめぎ合いという事になる。自分の癖の様なものは、いわば筆跡鑑定の様な物で分かるように既に変えがたい癖が筆跡に表われている。それは色遣いに置いても同じことである。自分の使う絵の具や、その組み合わせには法則が出来上がっている。ああそれではダメなんだと、そんなものに頼っていては、またいつもの所までしか行けないんだと言う、抑止する気持ち。それを思いとどまらせるような自己否定の気持ちが、立ち現れる。今までの自分やり方を否定しなければ、自分等というものに至る事はできない。お前は自分に酔っている訳ではないだろうと言う、自己否定の気持ち。
何もない所から、眼に映っている状態を、画面に移そうとまたそこに戻る。そして、この繰り返しに、何か意味があるのか、無意味なのか。そいう事も考えない。考えた所で仕方がない様な気分で絵を描いている。セザンヌは描いた絵をその場に置いて来てしまったと言うが、描くと言う事が最も重要で、出来た絵葉描いた事の意味を問い返す材料の様なこと。大体1回に描けるのは2時間ぐらいのものだ。午前中1回。午後1回の時もあるし。どちらか一回の時もある。それ以上はやり様が無くなる。やりつくしたという訳ではないが、やる意味を見失い、取りつく島が無くなる。絵が出来た訳ではない事は分かっているのだが、もうそれ以上描く事はできない。日々その繰り返しである。こんな事は無意味なのだろうか。何かになるのだろうか。そういう不安はある。不安はあるが、それ以外にやりようもないので繰り返している。