自己新の思想

   

真鶴港付近 中盤全紙

高校時代陸上競技に没頭した。没頭はしたけれど、選手とは言えないぐらい弱かった。1500mで4分30秒の選手だった。インターハイ東京都予選にも出たけれど、一次予選落ちである。高校駅伝の予選では、なにしろ選手にも選んでもらえなかった。その世田谷学園の成績が、東京都の予選の真ん中ぐらいだった。東京都の代表が全国では、下位だったのだから、はっきり言って弱い学校の弱い選手と言うことになる。高校時代の友人も私が陸上競技ばかりやっていたということすら、覚えていない。自分の持って生まれた肉体では、陸上競技では間違ってもオリンピック選手には成れないということは分っていた。それでも何故あんなに必死にしがみついたのかと言えば、人と較べないということだった。自分が向かうのは自分の限界である。今の自分を一歩進めたいという思いだった。だから練習はやった方だったが、身体がそれに耐えられる強さすらなかった。間違っても君原選手には成れないけれど、君原選手と同じくらい、自分を追い求めるのだと思っていた。

君原選手のことはもう覚えている人も少ないのかもしれない。東京オリンピックで8位になった選手だ。選手時代の君原選手は、出場マラソンの順位で一番悪かったのが、この8位という記録だった。今に至るまでの生き方からも、尊敬に値する方だ。マラソンを走るという意味は勝つということだけではない。当時、どこかで僧侶に成ろうと考えていた。その為に走ることを座禅をすることと同じに考えていた。明確には意識はしていなかったけれど、千日回峰業に近いかもしれない。走るたびに、少しでも新記録が出るように頑張る。自分の限界を越える。いまだかつてない自分に成る。俗物の私には、座禅修行の訳の分らなさに、つい乞食禅になったのだ。乞食禅とは、悟りを得るため、目的の為に行う修行のことだ。悟るために座禅を組むくらいなら止めた方が良いと、頼岳寺の三沢先生は言われた。

座るために座る。それ以上でも以下でもないのが修行だ。この境地が今もって理解できない。それで分りやすく、1秒記録が伸びることを目標にした。それは、確かにくだらない。くだらないのは承知で、自分の分る所でやる以外にないと考えていた。そんな高校生だったということだ。それが自己新を目指すという考え方になった。走るということは肉体的に苦しいことだ。苦しいから、力を抜く。少しでも自分の気持ちが、強く成り力を抜かない為に、自己新と言うことを考えた。今ではそれを自己新の思想と少し大袈裟な言葉で考えている。他者との競争思想に対抗したいと考えるからだ。競争を正義として、能力主義を是認している社会だ。能力があるものが、勝者になって良いとする社会だ。能力というものは、体重と同じようなものだ。努力もあるが体質も可成りを占めている。身体を差別の理由にして成らないことと同じで、能力も差別の理由にしては成らない。

能力主義が重視されるのは、それでなければ人間は努力をしないと考えられているからだ。報酬で頑張る。人間をそういう情けないものと考えるのが、能力主義の根底にある。人間と言うものを全面的には信頼していないのだ。確かに、厳しい練習をしていれば、手を抜きたいと思う。しかし、自己新を目標に、各々の努力をすることが尊いと思う。それがほかの人と較べれば、極めて低いものであっても、その努力と向かい合い、評価する社会にしなければならないのではないか。その人なりの努力の意味。自給農業には、誰もが受け入れてもらえる良さがある。1時間で出来る自給を私は達成しているが、そこに至るまでは、3時間の時代があり、2時間になって、ついに1時間になった。これは能力の向上である。一秒短縮するには、その努力がある。家族で、集落で助け合って、それぞれの能力に見合うように、自給を達成してきたのが、日本の社会だった。農業には、それぞれの能力を認めてくれる良さがある。

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