静岡県の国語力

   

静岡県の小学校が全国の一斉学力テストで、最下位ということだ。川勝知事は元早稲田の政経の教授という、成績優秀タイプの人だから耐え難いことだろう。成績下位の小学校の校長の名前を公表すると、発言した。確かに国語力が不足しているということは、深刻な問題だ。小学校で英語を学ぶどころではないだろう。まず、国語力が回復するまで、英語教育は行わないことを宣言したらいい。日本語がわからない、日本人が英語を学ぶなど滑稽なことになる。これは家族自慢だが、私の兄は、高校生の時全国模試で学校ではトップ、全国でも10位以内の上位者でいつも名前が出ていた。他の科目はそういうことはなかったのだが。国語だけはずば抜けていた。寺山修二は全国で1位だったと書いている。それで思い当たることが一つある。読書である。兄は読書量がけた外れに多かった。学校で一番図書館の本を借りた人、という表彰を受けた位である。実は今でも読書が趣味と思われて、良く読んでいる。役に立っているかどうかは危うが、かなり偏って読んでいる。

これも家族自慢であるが、私の父も母も、本だけは買いたいと言えば必ず買ってくれた。そして、家族でその本の読書感想で語り合いをすることになっていた。父も母も良く本を読んでいた。父は民俗学をやっていた人だったから、当然ともいえるのだが、母が私が読む大抵の本を読んでいたことに驚いたことがある。家族でドフトエフスキーを話し合うというのも、変わった家族かもしれないが、この点ではとても良い家族だったのだと思っている。その結果国語だけは成績が良かったのだ。私はそれほどでもなかったが、他の科目よりはやはり良かった。そういう経験から言わせてもらえば、川勝氏は見せしめに小学校長の名前の公表などするのでなく、小学校の図書館を充実させればいいのだ。それが行政の前向きの対応というものだろう。550学校があるなら、1校毎年10万円図書費を増やすと、全県で5500万円である。しばらくやってみたらどうだろうか。

国語力が低いというのは、学力の中で一番困ることだ。明らかに国力は低下する。人間形成にも大きく影響する。そう考えたのは、フランスに居た頃、日本人なのだが、ナンシーで育った大学生が居た。その人は子供の頃は日本に居たのだが、中学に入る頃ナンシーに来た。その結果、フランス語もとても上手だし、当然日本後もしゃべれる。ところが、読書が不足していたのだと思う。日本の本を気軽に読む環境ではないし、フランス語の本を読むのは、あまり得意ではなかった。結果、読書経験がほとんどない人になった。文字に距離のある人になった。たぶんその結果かなり変わった人になってしまった。人間というものは、活字を通して、様々なことを教わる。教養と言われるようなものは、大半は読むことで豊かになる。本は読んでみなければ、その面白さはわからない。本の面白さに気づけるかどうかが、小学校で一番に学ぶべきことではないだろうか。

江戸時代の識字率が高かったということを以前書いた。これには何をもとにそういうでたらめをいうのかという批判があった。しかし、その後気を付けてそのことを調べても、日本はこの点特殊な国と言えるほど、文字の普及は進んでいたと考えたほうがいい。それは野次喜多道中のような、庶民向きの出版文化が成立していたことや、瓦版での情報伝達が行われていたことなどからもわかる。都会の男子は、80%位の識字率があったと言われる。正し識字率の考え方は、巾がある。寺小屋への就学率もかなり高かった。地方の農民でも、文字を学ぶということの重要性を認識していて、寺子屋に通う人が多かった。伊勢暦が農作業の基準としてかなり普及していた。ハエが出た日、種まきの日、そういう記録をごく普通の農民自身が残している。学問をする価値というものが、庶民にまで認識されていたことは確かだ。そうした識字率の高さから、江戸時代の循環型社会が支えられていたともいえる。

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