エネルギー国民的議論の進め方
政府がエネルギーのこれからのあり方について、国民的議論を進めるとしている。必要かつ正しい考え方だ。それが、11会場で9名の一方的な意見表明という事のようだ。例の電力会社の社員が原発必要論を述べて、話題化したものだ。これで十分な国民的議論とは、さすがに誰も思わないだろう。もしこれを国民的議論というなら、議論というものの意味を取り違えていることになる。このやり方は一方的な意見表明であり、議論ではない。意見交換のない議論ではおかしい。互いの意見が議論を交わす事で、昇華され、深まるというようなものとは違う。当たり前のことだがエネルギーの将来構想には、様々な観点からの、それは多様な考え方が存在する。それを主張し合い議論する。私は「地場・旬・自給」の思想に基づき、エネルギーも解決しなければならないと考えている。つまり、エネルギーも自給を原則にすべきと考えている。自給できるエネルギー量に見合った暮らしを立てることである。
日本の自然環境を永続的に維持し、循環できる暮らしを目指すべきだ。拡大再生産型の経済至上主義は、世界の競争を激化し、貧富の格差を広げ、貧困と食糧危機をさらに深刻化することになる。日本には江戸時代という、特殊な鎖国時代を経験することで、自給的安定する社会を模索した貴重な体験がある。もちろん様々な問題点があったことも事実だが、その暮らしのあり方に、世界が永続的に維持される幾つものヒントが存在する。例えば、人間の幸せというものが、人間の生きるどの方角にあるか。江戸時代は物質的豊かさよりも、精神的に充実した暮らしを尊んだ。ご先祖に見守られ、ご先祖と同じように暮らす充実を大切にした。農業においては、稲作という永続性のある農法を確立し食糧の安定供給を目指した。里地里山では、手入れを行う事で、大きく自然を改変するのでなく、どのように自然に従って暮らしを織り込んでゆくかを模索した。そして、一定の循環できる社会の安定を確立させることが出来た。
現代社会が競争の原理に従い、競争に勝つことでのみ、豊かな暮らしを手に入れることが出来る社会になっている。この能力主義の徹底により、技術の進歩や暮らしの利便性は著しく向上した。それは画期的な人類の成果ではあった。エネルギーにおいても電力というものを手に入れ、暮らしは見違えるように、便利に近代化した。しかし、その利便性を支えるエネルギーもより効率の高い、競争に勝てるものにとシフトしてきた。そして、原子力エネルギーを最善のものとして、選択し拡大してきた。ところが、原子力エネルギーは一度事故を起こせば、取り返しのつかない技術でもあった。機械である以上事故や間違いはつきものである。この恐怖の上に人間は暮らさなくてはならなくなった。しかもそこから出る、放射性廃棄物は、日本学術会議の結論では、今だ処理技術も確立せず、何万年もの間未来の人類に、処理法のない負の遺産を残す事になっている。これは現代人の未来を欺く、利己主義の結果だと思う。
今は循環型エネルギーに転換すべき、歴史的機会である。確かに、この時点で自然エネルギーへの転換は、大きな不利益も存在する。競争という意味では困難が伴う。しかし、ここで一歩下がり、原子力エネルギーを放棄し、出直す事が出来れば、日本は必ず未来においては、循環型エネルギーの先進国としてよみがえるはずである。現状にしがみつくことなく、この原発事故を天命と認識することだ。江戸時代に行ったような、もったいないの知恵をふんだんに発揮して、日本人らしい暮らしかたを提案することは、必ず人類全体の希望になるはずである。その為には、転換が達成されるまで辛いだろうが、原子力は放棄するという大前提に立ち、すべての方角を自然エネルギーの開発に向けるべきだ。原子力に未練を残し、経費をかけていたのでは、この歴史の大転換も出来ないことになる。大きな失敗を未来へ糧として、次の循環する暮らしの時代を国民全体で模索すべき時が来ている。
昨日の自給作業:田んぼの畦の草刈り2時間 累計時間13時間