原発家畜餓死

   

福島第一原子力発電所の事故で、避難指示区域(原発の20キロ圏内)に牛約3000頭、豚約3万匹、鶏約60万羽が取り残されている。避難から1カ月が経過した。多くの家畜が餓死しているだろうと想像される。養鶏を行うものとして、なんとも耐え難いことである。ペットの救出は続けられているが、家畜は完全に見捨てられてしまった。どんなことが起きているか、想像力を働かせて欲しい。管総理が視察するなら、放棄された家畜舎の壮絶な状態を見て欲しい。こんな悲惨は2度とみたくない。あってはならない。東京電力及び、政府の原子力推進の方針が間違って居た結果である。原子力事故は他の災害とは本質から異なる。今何が起きているのか、直視して欲しい。福島から来た犬がすぐ脇で、苦しんでいる。この犬は飼い主と離れ離れになり、不安の中苦しまなくてはならない。現地では繋がれたまま餓死している犬もいるという、群れに成って野犬化している犬もいるという。

この人の入れない地域で、群れている犬の状況を考えると地獄である。すべては原発地獄である。ここまで来ても、原発依存政策を変えられない日本政府、経団連、東電、そして、原発を必要と考えるかなりの数の日本人。何を守ろうとしているのか。自己本位の経済にちがいない。家畜を経済動物と呼んで、使い捨てにする。家畜を家族として考え、共に暮らして来た昔の人々の生き方の方が、はるかに優れている。人間は自らの快適さの為に生き物の命の尊厳すら犠牲にしてしまう。現代の人間の暮しは、法というものから外れている。口蹄疫、鳥インフルエンザ、原発事故。すべて同根である。近代文明の限界が見えてきたのではないだろうか。今回の原発の事故で分かるように、一度事故が起きたら、人類は終了するかもしれないリスクが原発にはある。このまま原発政策が進めば、こんな事故が毎年どこかで起きることになるだろう。ある程度は仕方がないとか、必要悪だろうとかとは、原発の性格は違う次元の方法だ。

「車だって事故を起こすだろう。お前だって電気を使っているだろう。」こういう論理が散見される。原発は安上がりだから、利用したに過ぎない。原発は安全を正面から考えれば、高価な発電法だったのだ。使用済み燃料棒というものが行き場がなく、原子炉内に山済みにされていた。広くは知られていない想定外の事である。どこかに捨てられるはずだったが、行き場がない。使用済みの死の灰の行き場は高くつく。お金を付けても貰い手はいなかった。川内村に戻った養鶏をされている人は、放射線の測定器を持ちながらの暮らしだそうだ。家畜が可哀そうだからと言って、行くも地獄、戻るも地獄。この事態を想像できずに、動物愛護協会に任せておけばと、想像力の欠如。すべてが他人事の現代社会。今回の事故は、事故ではなく犯罪に思えてきた。東電と国を検察は告訴すべきではないだろうか。金に目がくらみ、危険を知りながら原発を利用し、地域住民に対し多大な被害を与えた罪。

牛が畔の草を食べている映像が出ていた。小屋から出られた牛だけでも、あのままにして置いて欲しい。案外のんびり草を食んでいた。車に対しても、人に対しても無関心のようである。これから暖かくなり、草の生育も早い。充分生きて行けるはずだ。そして牛の様子を観察しようではないか。指標動物ということにしたらいい。戻どれる日が来るのか、来ないのか。牛がどうなるのか。20キロ圏内というのだから、広い。6か月から9カ月したら、戻れるというのが政府の考えのようだ。放射能の影響調査を、牛を材料に調べたらいい。今回の原発事故を契機にして、日本の方角を変えることができれば、まだ間に合う。大切なものは、お金だけではないということだ。人間が生きる意味。どんな暮らしが、生きることを深く知ることが出来るか。物欲を捨て去ることは出来ないが、せめて流されない暮らしをしたい。

 - Peace Cafe