原発事故の対応の見極め
今回の原発事故が最悪の展開をしている。想像通りとは言えるが、原発の廃止をできなかった自らに残念な思いが強い。若い人たちに申し訳が立たない。いつか来るとは思っていたにも関わらずだ。原発事故で次々に明らかになる現状。原子力発電施設というものが、研究所の実験レベルのものをそのまま巨大化して、営業用にしたものであるということだ。営業用にする際に、いかに格安に作れるかが追求されている。原子力による電力が格安であるとは常々言われてきたことだ。それは安全性とか、未来永劫続く廃棄費用とか、こうした事故対応とか、広大な汚染除去等々。一切を抜きに考えてきた、ということである。例えば、今一番深刻な停止後の使用済み核燃料の保管場所が、原子炉の上部の空き空間のような場所に配置されている。水をかけようとして届かない高さである。本来地下施設に置いておくべきだろう。非常用電源系統のもろさなど、驚くべきものである。
書きたくもないが、事故当初から東電はこの事故の全体を把握していない。一番やらなければならなかったのは、非常用電源の再敷設である。5日目に成ってやっと気がついたようだ。まだ引けていない。もう引いたところでどの程度有効であろうか。塩水をかけることをためらっていたのが、最初の対応である。地震時に停止してある、点検中の炉はひとまず安全であると考えたようだ。何か隠していないとすれば、素人でも気づくお粗末さである。そのくらい能天気だから、これほど危うい施設で働いていられたのかもしれない。この点では、石原都知事の天罰発言は同感せざる得ない。早急に事故対応を変更し、チェルノブイリのように、コンクリートで覆う方向に行くべきだ。これ以上放射能物質をまき散らすことは、世界に迷惑をかけるばかりである。そして全原子力発電所を停止する。経済的な打撃はあるだろうが、日本人一人ひとりが責任を取る以外にない事である。
テレビコマーシャルで、原発推進を述べて来た方々、今回の事態に至った責任を深く、悲しく感じてほしい。無知からとはいえ、自らが人類に及ぼした甚大なる被害の、一端の責任があることは自覚してもらいたい。そして、原発廃止の先頭に立って欲しい。騙されてコマーシャルに利用された人が反旗を翻せば効果は高い。原発の安全性を高めるということは、そもそも不可能なものなのである。それは、安価な電力が主目的だからである。高くても良いならグリンエネルギーを選択する。経済の問題ではない。思想の問題である。日本の家屋の屋根すべてにソーラーを付ければ、原発は不要である。車は電気自動車として、家庭で充電をする。エネルギーの自給である。そう言えば、電気自動車の本を送ってくれた、Sさんのマンションに地震の一晩は居させてもらった。
先日から江戸時代の循環型思想を調べていた。日本の進むべき、循環型のモデル的姿がある。今後そのこと少しづつ書いてみたい。まず気付くことは、大きな思想が背景にあるということである。仕方が無いからとか、遅れていたからではない。あえてその方向を選び、安定型社会。発展しない社会を目指した。江戸時代も当初は、銀輸出による資金でインフラ整備を進める。しかし、一定の時期が来ると開発志向を止める。新田開発なども一時期を除いて、初期以降は少ない。人口の安定化もおこる。今考えていることではあるが。循環型の技術主義と言っていいのではないか。農薬や化学肥料を使う近代農業技術の永続性の技術思想より深いものがある。人類が今の方向を変えることは容易ではない。しかし今回の原発事故は、方向転換の契機に成る可能性はある。気付いた人から始めてみる。段ボールコンポストを始める。この一つが出来なければ、何も変わらない。この一つが出来れば、全体が変わるだろう。