笹村農鶏園絵図
笹村農鶏園絵図
農の会では毎月通信が発行されている。現在は、鈴木編集長がものすごい努力で続けてくれている。通信だけでつながっている人もいるので、農の会としては不可欠なものだ。その最初の所に、生産者の自己紹介欄がある。順番に、というか言われたものはすぐ書くことに成っている。書いて下さいという指示があった。14日が締め切りだと思っていたら、11日だということで、慌てて寝ずと描いた。指示では、イラスト等入れてほしいということだったので、一層の事、絵図にしようと思った訳である。全体がどうなっているのか、描いて置きたいと思ったのだ。写真もあるのだがさらに分かりにくい。イラストにしたからと言って分かりやすくなった訳でもないが、実際より少し面白い感じだ。描いているうちにさらに構想が広がってくる。描くということは整理されることで、農鶏園の構想が徐々に育ってゆく。
面積は2反ほどである。家と続きの場所である。全体が南に傾斜した土地である。昔はすべてが畑だった場所だ。昔というのは、江戸時代初期にはすでに畑だったに違いない。つまりとても条件の良い場所だった。私が越して来た時は、かなりの部分が竹藪に戻ってしまっていた。続きに久野最後の煙草の乾燥小屋の立派なものがあったので、煙草を作った時期もあったのだろう。大根を作ってたくあんにしていたとも聞いたので、大根が作られたこともあったのだろう。土壌はいわゆる赤土でローム層だと思う。下の畑の部分は、野菜畑として作られていた。見事な栽培がされていたんだが、土壌はサラサラの状態で、雨が降ると赤茶けた水が流れだす土であった。とつで作物を作るというより、水耕栽培のように土壌は作物を支える役割という感じだった。それを素晴らしくコントロールして、大きな野菜を何でも作っていた。それはそれで見事な農業がおこなわれていた場所である。
上の竹やぶ整理から始めた。今は亡くなってしまった、佐藤さんが熱心にやってくれたことを思い出す。竹藪の片づけだけで3年はかかった。大きくは3段に分かれている。上段5畝が鶏を飼っている。音と臭いが漏れないように、竹藪の奥に鶏は居る。鶏の遊び場は2か所に成っていて、土地の状態が悪くなると、一方の遊び場に出している。竹藪に続いての最上部は山ウドとタラの芽である。春先に食べるのが楽しみである。ここはまだ竹が駆逐されていないので、油断すると竹が戻ってしまう。次の中段5畝が果樹園である。様々植えてある。枇杷が9本と一番多い。後は2,3本づつである。地面は鶏の緑餌の畑にしてある。今の時期はカラシナである。夏場はヒユナ。これが案外に上手く管理されていない。放任で行くか、栽培で行きか、迷うところである。栗とブルーベリーとイチジクが最初に成り始めた。イチジクは虫が入ってしまい枯れ始めている。
下の段5畝が野菜畑である。何でも作るのだが、キャベツやブロッコリーが良くできる。ホウレンソウ等は物は今一つ出来ない。大根は良いが、ニンジンは駄目。ジャガイモの方が、さつまよりできる。本当に作り始めて3年が経過して、やっと自分の扱いやすい土壌に変わってきた気がしている。今はタマネギに力を入れている。松本さんのブログを見ては、そうか、もみ殻を撒くのかと慌ててやっている。暖かくなったら、果菜類をまともにやろうと思う。いつも出来過ぎても困るというような気持があって、中途半端である。全体の西側に、下から、苗を作るハウスがある。そこは石垣の蓄熱を利用したもので、踏み込み温床もある。中断が育雛小屋。上段が最小限の家「石楠花の家」。東は全体が竹藪である。竹藪は先日鎌倉の人が片づけに来てくれた。土壁の竹コマイを作るのだそうだ。有難いことである。
昨日の自給作業:田んぼの鶏糞撒き2時間、果樹剪定1時間 累計時間:10時間