都議選結果に表れているもの
都議選の結果は、予想外に自民党と特に公明党が、頑張ったもんだと思う。予測ではこんなレベルでなく、落ち込むと思っていた。甘かった。マダマダ、チェンジしないほうを望む、現状維持派がいる。自民党の解体に続くだろうと思っていた。公明党と連立した時から予測してきた事だ。自民党は、言い方は悪いが公明党レベルになったのだ。仕方がないから連立したのだろうが。自民党は保守党としての、権威の喪失。政治の老舗としての看板に傷が付いた。公明党は政権与党になる事で、新興宗教団体を背景にした、危うさ、特殊性をイメージ的に薄める事に成功。公明党としては、これ以上の拡大は不可能で、ある程度要求のできる、与党と組のが最善と考えているだろう。東京都政では、当然自民党との連携はなくなる。一野党になる。そう言う事にもう耐えられなくなっている、各議員はどんな行動に出るのだろうか。それが衆議院選挙後の国政での、連立与党の姿。
何故、まだまだ自民党に入れる人がいたのか。このことに驚くが、今起きている経済の転換を、理解できないでいるからだ。政府の経済活性策は、借金で行っている事だ。一時特需があるにしても、結局は大きく落ち込んでゆく。必ずこの先に怖ろしい事態が待っている。このままでは駄目だ。価値観の転換に気付かぬ限り、大きな崩壊があるだけ。大きな悲惨があるだけ。ところが、受け皿が民主党である。たいした違いはない。今のままで、修正してゆけば何とか成ると言う範囲の考えしかない。にもかかわらず、共産党も自民党と同様の衰退。社民党は論外。行き場のない、憤懣が今回は民主党に流れた。民主主義は歯がゆいものだが、粘り強く行くしかない。民主党でも、自民党でも、共産党でも納まりきれない、イライラのようなものが、さらに高まってゆくことになる結果。
本来起こるべきは、政治ではないところでの社会の変革。価値観の転換。お金じゃないよと言うような、素朴な暮しの価値観の動き。良い学校に入り、良い会社に勤めて、だけじゃないよ。と言う価値観の多様性の認知。ご近所の評判がそういう所になくなるような、暮らし。そういう誘導された明治以来の富国強兵、帝国主義への道のりの、精算。生きてゆくという、暮らしの日々の実際の検証。幸せに、安寧に暮すと言う事は、競争じゃない。経済でもない。充分に一時一時を味わい歩む暮らし。去年も田植えをし、草取りをして、稲刈りをした。来年も又田植えをし、草取りをし、稲刈りをする。何ら変わらない中で、その深まりを感じる。アジア的日常。田んぼに来る鳥たちと、少しも変わらない生命を、生きるというような。何時から田んぼで笑うなど不謹慎と言う、変な観念が出来たんだろう。
こんな事を肌で感じたのは、赤松さんの所で、ケイジュさんの音楽を聞いたからだ。平和な暮らしと言う事が、一瞬にして現れる。ユーラシアン・ルン。アジアの響き。ハンガリーの古い音楽と言われたものは、圧巻であった。ヨーロッパまで地続きの文化。インド・タイ、そして四国の山中のケイジさんのゆるやかな暮らし。そして超絶的弦楽器のテクニック。ヨガの修行者のような、全くゆるやかに生きていながら、音楽と言う世界での徹底した追及。競争ではない、自己深化。赤松さんのナマステには3度目の来訪。都議選とは何の関係もないことのようだけど、実は、価値観の転換が問われている、と思う。大きく変わる、特に暮らしの経済的基盤を変えると言う事は困難である。しかし、この先の経済を考えれば、いい転換の機会である。ケイジュさんもそう、ゆるやかに言われていた。子どもがいて、仕事につくしかない。どうもそうじゃなくなってきた。