議会質問
国会では補正予算案の審議が行われている。蓮舫氏がなかなかいい質問の仕方をしていた。日本では議論の伝統がない。「小田原評定、久野寄り合い」こういう言葉がある。何時までも話だけしていて、結論が出ないことだが「久野寄り合い」というのがつくのが、小田原言葉である。小田原評定以上に結論が出せない話し合いを意味する。しかしこの話し合いが長いというのは、日本人の知恵であって、戦争という急場には間にあわないが、普通の暮らしにおいては、とても良い審議の方法だったと思う。この言葉にはそのニュアンスもあるのだ。所が今の暮らしというのは、敵がそこまで来ているような、待ってくれないような事が続いている。それを百年一日のペースを想定した話し合いの習慣で対応しようというのだから、埒が明かない。
蓮舫氏の国会質問がとても良い見本だと思った。この人がどういう経歴の人なのか、よくは知らなかったが、中国人の父親で日本に帰化した人らしい。とても議論というものを理解している。問題化している、出産受け入れ体制が崩れてしまった今の産科医療の事を問題にしていた。少子化対策担当大臣小渕優子氏厚生労働大臣と舛添氏への質問は緊張感のあるものだった。今の状況を先ず共有させる。小渕氏のブログを取り上げ、まったく子育てについて同じ認識を持つと評価。出産の受け入れ態勢には600億円あれば先ずは整備が出来る。今の予算では600億円を3000円づつ子供の居る家庭に、補助することになるが、そのお金を使って、出産医療体制を立て直すほうが、緊急課題ではないか。こう主張して、小渕大臣も同じ考えなのに、なぜ、3000円のバラまきを選ぶのか。ほとんど小渕氏は立ち往生状態であった。内閣において何の発言も出来ない大臣であることが、想像通りであることが理解できた。返す刀で、舛添氏に予算の配分の不自然さをついていた。先ず基本精神を共有する。その上で、それならこの配分はおかしい。こうあるべきだと、鋭く指摘していた。
小田原の市議会質問では、ほとんどの議員が自分の考えを述べている。一体誰に向けて、自分の演説をしているのつもりだろうか。議員個々の考えの表明など、他でやってくれと、言いたい。行政の行う予算のあり方を、立案から執行まで、問い正すことが、質問の基本であろう。先ず質問の技術に劣る。「私はこんなことを考えております。」まるで中学校の生徒会の立候補演説のようだ。議会中継というものを時々見てみるのだが、今まで中継をしなかった理由が良くわかった。議会というものが、機能していなかったのではないか。議員と職員が馴れ合いで、舞台をやっているような雰囲気である。茶番劇である。丁々発止の緊張感がない。議会のチェック機能が働いてこなかった結果は、城下町ホールでよくよく判った。大半の議員が反対なのに、なぜあそこまで、すんなり進んだのかが不思議だった。誰も本当の所に気付いていなかっただけなのだ。
市議会議員の皆さんは是非とも、蓮舫氏の国会質問を研究して欲しい。短時間の中で、小渕優子氏が単なるお飾りであることを明確に、国民に印象付けたこと、舛添氏がきれいごとを言っていて、実質的には少しも実行できていないこと。このことを明確にしていた。その論議の流れで、もう一度麻生首相に定額給付金の問題が、いかに馬鹿げた政策であるか。念を押した。麻生氏の小ばかにしたような態度が、いかにも国民感覚から遊離しているかを、上手く演出した。何を獲得するかが、明確なのだと思う。市議会で言えば、もう少し具体的に、成果をあげる質問技術を磨くべきだ。この質問でどういう結果を出すのか。絞り込む必要がある。などなど、こんな所でぶつくさ言った所で、どうにもならないことだが。