59歳になる。
いよいよあと一年になった。60歳までは何とか、世間の役に立つ事もしなければならない、でも、60に成ったら、そんなことはかまわない。それが定年であり、隠居だ。隠居と言うと立場も封建制の時代に出来た、不思議な立場だが、家督を譲り、悠々自適という姿が浮かぶ。しかし、私のイメージする隠居は、伊能忠敬だ。隠居して、日本地図つくりに打ち込む。隠居になってからの事は今はどうでもよかった。今は後1年をどう頑張るかだ。養鶏業は農業の中では軽作業の仕事、と思われている。しかし、なかなかそうでもない。力仕事も結構ある。餌のオカラ運びから、おから詰めは。結構大変だ。餌の運搬や仕込みも、やはり力仕事ではある。30キロぐらいの単位の荷物だ。これを軽トラに載せて下ろして、の繰り返し。だんだんに辛くなっている。出来ないほど衰えているわけではないが、疲れる仕事になってきた。
元来、虚弱体質と言われて育った。今でも風呂屋で、わたしより貧弱な体型の人にはまず会わない。たまにやせた人だなとおもうと、80は過ぎたお年寄りで、そうだよなと思う。子供の頃を知っている人なら、とても農業が出来る訳がないと思っているだろう。少し頑張れるようになったのは、高校のときの陸上競技部に入ったことだ。頭が混乱して、しばらく学校を休んだりして、神経衰弱だと言われていたが、それがどう言うものかはわからなかった。どうするかと言う時に、思い切って運動に身をゆだねてみようと考えた。陸上競技のただ走ると言うのが、良さそうに思えた。毎日最低でも10キロは走って、その上にインターバルなどをやった。練習をしすぎては身体を壊し、の繰り返しだったが、努力では限界があるという当たり前の事に、到った。努力次第では、そこそこの所へ到達できると思っていたが、スポーツはそんなものではないという事を知った。
それでも、そのときのほぼ3年間が体力を、やっと人並みにしてくれた。肉体労働のアルバイトを、随分やったが何とかこなせるだけになった。何よりも、何とかここまで自然養鶏をしてこれた。自給自足の実験をして見ようと思えたのも、体力があればこそだ。今ではそういう発想が出てこない。しかし、そろそろだと思っている。食べ物を作ることは、責任の重いことだ。本気で、全力で取り組む事だ。その責任が取れるのは、60までとした。農業は既に平均年齢で70歳と言う仕事になっている。これは、子供の頃から農業をしてきた人が、今は居るからだ。今の農家では、めったに手伝う子供など居ない。途中から農業を始めた人の身体では、70で農業をやるなど、不可能な事だ。だから、農文協が「定年帰農」と主張したのには驚いた。
あと一年、無事に自然養鶏を継続する事にかけたいと思う。私が考える最高の卵をあと一年生産する。これが社会貢献ではないかと思う。ささやかな事ではあるが、これが一番大切な責任だ。次に、平行して自給自足の探求を進めたい。最小限の家も、だいぶ出来上がった。年内には完成に持ち込みたい。畑のほうは今だいぶ荒れてしまった。草に負けて居る。昔はこんな事はなかったが、今の状態では、夏などあまり働けないと言う事がわかった。養鶏場の草刈で、もう手が回らない。それなら夏の畑はどうするか。今旺盛なのは、さつまいも、サトイモ、大和芋、のようなイモ類。あるいはカボチャ、冬瓜。それなら、夏の間の葉物をどうするか。ヒユ菜とか、田んぼのエンサイとか。何か手のかからない方法を考える必要がある。