自給的に生きる その4

      2016/08/10

意識の問題
生きると言う事の実相が、自給に生きる奥に横たわっている。その日々の実態の積み重なりから、意識の中に徐々に積み重ねられる層がある。その積み重ねられる、日々の意識の層のようなものが、その生きると言う事を実在化してゆく。知識的に知る事で、解ったような気に成ってしまう愚かしさから離れ、体験的に肉体が覚えることとの決定的な深さの違いのような物を重視したいと思ってきた。飢餓と言うものを、書物の研究で知ると言う事と、飢えのなかに生きる事を通して、その恐怖感を伴って知る事の違い。飢えという体験の実感を持って、想像するような考え方こそ、人間の生命の根源には、唯一意味がある。といっても、何でも体験主義的にというのでなく、少なくとも食という生き物の基本と成るものについては、体感しない限り殆ど意味がないと思う。

春ジャガイモの周辺の草を抜いた。草の生える状態には、むらが色々ある。草の種類も、スギナとハコベが主に生えているが、その生え方の状態には、畑の中の微妙な条件にしたがい、色々変化がある。そこにカラシナが混ざる。そして肝心のジャガイモがある。これをどのように観察して、どうジャガイモのを収穫につなげるか。ここには一種の感覚が存在する。例えば、叢生栽培を、不耕起栽培を、多様な農法があるとしても、どの栽培法を選択するかは、その自給の性格による。その選択は偶然であったにしても、自給の性格によるだけでなく。栽培法によって自給の性格が生じる。栽培法から来る日々の積み重ねが、自給という意識を生命に浸透させてゆく。生命の性格が、そこから定まる。農業はその人間を作り変えてゆく。

水田を中心に行う者。畑作を中心に行う者。畜産を中心に行う者。それが、自給的農業に近いものであればあるほどに、そのあり様はその人間のあり様を作り上げてゆく。水田の耕作が日本人的性格を形成したという考え方は、文字通りのもので、恐ろしいほどに、その感性の形成に影響を与える。畑作も同様なもので、麦を中心に耕作してきた、ヨーロッパ人は麦作りの影響下にあるといえる。白人を遊牧民的という考え方もあるが、私にはとてもそうは思えない。麦作りの何か、無駄の多い。得るものが少ない。条件の悪い感じある。もちろん他民族の事はよく解らない。畜産、養鶏を行う。これは生命的である。命の循環の姿の中にある。古代エジプトでは養鶏が盛んであったらしい。これは独特の文明の性格を現しているかもしれない。イスラエル人も鶏を好むそうだ。エジプト、ユダヤ、と養鶏は繋がっているかもしれない。

自給の暮らしには鶏は居たほうが好い。鶏を含んだ循環を考えていると、私には都合の良い輪がイメージできる。鶏は要に居る。その循環の周辺の輪に、様々な作物が位置づけられる。お米があり、野菜があり、大豆がある。

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