ぬる湯とぬるま湯

   

いつもゆく、スーパーセントーの「コロナの湯」にはぬる湯というのがあり、一番人気だ。長くはいる人は私が行った時にもぬる湯に居て、帰るときにもまだ入っている。たぶん寝込んでいるのだ。ぬる湯は露天風呂で、気持ちがいい。その上幾ら入っていてものぼせない温度だから、寝込んでしまう人が居て当然だ。子供もぬる湯が好きだ。プールだと思って遊んでいる。暴れるのでは困るが、少々の事は構いやしない。この前は隣の植木に盛んに水をかけている子供が居た。何せ塩水の温泉だから、すぐ木が枯れる。「そんなにかけると木が枯れちゃうよ。そっちのが枯れてるのは、この前来たときかけたからじゃない。」と話しかけると、離れた所に居た叔父さんが。「今日始めて連れて来た。」とすごんだ。孫なのだろう。そんなら少しは何とか言えよ。とは思ったが「そうだったの、間違ってごめんね。」と子供にはあやまった。昔はマナーにうるさい年寄りが必ず居て、風呂屋は子供が怒られるところだった。子供はこのぬる湯をぬるま湯だと思っている。「ぬるま湯に行こうよ。」などとお父さんに大声で言っている事がある。大した違いがないが、「ま」が抜けていて間抜けだから、まが多すぎるとどうなるのだろう。やはりテンポが悪い。まさに間抜けに「ぬる」に行こうという青年も居た。名前が呼ばれるぐらい、愛されていると言う事じゃないだろうか。

松下幸之助の出世話に、風呂屋の段がある。まだ貧乏生活の時代に、銭湯に行ったそうだ。そうしたらお風呂のお湯が浅かった。それで、かき寄せたけれど、かき寄せたけれど、深くならない。(そんな馬鹿なとは思うが、一応逸話ですから)それで今度は向こうに押しやった、幾ら押しやっても減らない。ナルホド、と閃く。さらに、人が一人、二人と増えてきた。段々混んで来るとお湯が増えてくる。そうか、とここでも閃く、そして、ナショナル電気が繁盛した。何に閃いたか。東城先生のように、お風呂は上半身は入っていけない。腰湯までだ。それで健康に成った。そうではない。相手に押しやれと言うのだ。かき寄せたところで増えないなら、押しやっていた方が、人様は有難い。どうせ戻ってくるのだ。私は後段の人が増えれば、お湯が増えると言う方がずっと好きだ。沢山人がいると言う事が大切だ。こちらの閃き。結局、混んでるお風呂屋さんの方が、好きなのだ。混んでいて嫌だと言う人がいるが、トンでもない。ごちゃごちゃ人が居るところがいいのだ。そこが銭湯の良さだ。ちょっとすいませんね。詰めてくださいね。譲り合いお湯が増える。後段の方に重点を置く人は、企業家ではないのだろう。

入浴法は決まっている。先ず、体を洗う。1回目のサウナに入る。13分程度。そのあと、野外のフロで腰湯5分。そして、水風呂、これも腰までで、200歩。もちろん歩き回るわけではない、足踏み力強く200歩。2回目のサウナ10分。そして腰湯。又、水風呂で200歩。そして、3回目のサウナ10分。そして、最後の腰湯。ここは時間調整。大抵は5分。出る時間が打ち合わせてあるので、それに会わせる。なんか書いてみると慌しい風呂だ。別に急いでいるわけではないがいつもこうなる。もしかしたら、周りの人はおかしな人が来たぞ、と思っているかもしれない。もちろんなるたけ控え目にはしているが、余り人目は気に成らない方なのだ。一番いい風呂の入り方を、自分の体の反応に従い、探したくなるのだ。入浴前後で、800~1000グラム体重が減る。肩こりがなくなった。疲労回復が早くなる。リフレッシュできる。風呂には居る時はフロだけに集中して、一切他の事はない。こうした入り方をしていると、草津の湯長を思い出す。実に厳しいものだ。

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