民主主義とは何ぞや
今国連では、民主主義的な解決を目指し、北朝鮮問題が正念場を迎えている。各国が背景に抱えている荷物を背負いながらの、厄介な交渉ながら、頑張ってくれていると思う。イラクのときのように、間違っても話し合いを打ち切って、暴力行為に出るような野蛮なことのない様に願っている。
誰しもが、キムジョンピル氏の独裁政権と考えている。北朝鮮ですら、民主主義を標榜している。日本でも、モロ民主党や、自由民主党、があり、シンシン、やサキガケはどうもダメだった。民主という言葉は世界中で一番愛されている言葉かもしれない。それだけに民主主義は実に難しい。
ある人が、民主主義とはこころざしだ。と言った事がある。これはいつまでも心に残っている。学校で習ったのは民主主義はギリシャの都市国家で生まれた政治制度で、自由市民が直接政治を行う、デモクラシーの訳語だ。しかし、日本もそうで、北朝鮮もそうだとすると、中々難しいことになる。
民主主義は人民の、人民による、人民のための、政治だそうだ。こんな整理で考えた時に、将軍様は人民の幸せのために、政治をになってくださっているから、民主主義なんだ。という事もありうるのか。そうじゃない。一人一人が、主人公の政治だ。というのは、共産党から出る言葉だ。ジャー、共産党は一人ひりを主人公に運営してきたかというと、程遠いい。
つまりあらゆるところで、掲げる理想の形態として、民主主義はあるようだ。だからこころざしか。しかし、私達が何となく抱いているのは、人間は学習し、徐々に民主的に成ってゆくということ。それが戦後民主主義というものがもたらした、希望という方角だったと思う。
しかし、古代ギリシャの民主主義が、衆寓政治になり、崩壊するように、人間は少しずつ賢くなってゆく者とは限らないようだ。全体としてはわずかいいかもしれないが、ここにはだいぶ問題がある。こんな状況か。
あしがら農の会では、民主主義ということを何より大切にして運営されてきた。昨夜はある方が、自分のやっている特殊な農法を、5分間定例会の席で紹介させてほしい。こういう希望がでた。このことを行うべきかどうか、30分話し合い、行わないことになった。果たしてこのやり方が民主的だあったのかどうか。繰り返し考えてみなければならない。
ピースカフェの編集が、笹村個人によって行われているという、批判が、笹村個人へ私信という形で寄せられた。編集は編集委員会で行われているので、これは全くの誤解であり、これはピースカフェ全体の問題だから、全体で問題にしたいが、どうだろう。私信というなら、同様の内容をピースカフェに寄せていただけないか。とお願いしたが、それは困るということだ。
さて、この問題の民主的解決は、どこにあるのだろう。
自由な批判がしにくい、ここが民主的でないという事だろうか。批判をするものが排除されるような空気があるということか。もしそうだとすると、これは大変な問題だ。こうした事は組織は常に、検証してゆかなくてはならない。どのようにすれば開かれた、編集が出来るのか。不安をもたれない編集になるのか。透明性をどう確保すればいいのか。
民主主義構築のために行っている、ピースカフェですら、こうした事が起きる。大いに反省し、やり直したい。