和田義彦氏の盗作その後

   

和田氏の盗作の話は、世間では聞く事はなくなった。噂が消えるのは49日ですか。しかし、絵を描く友人と会うと、この話はまだ出る。本家のイタリアのスギ氏の絵が評判が良くない。これは想像したとおりだが、面白い。

和田氏がそっくりに利用したのは、その図柄だ。そして和田氏はいわゆるマチュエールを工夫した。絵肌をでこぼこに瘡蓋の様に盛り上げたのだ。これが公募展の油絵の特徴で、和田氏のように、人の図柄を利用して、評価されたいと考えるような人なら、当然、評価されるマチュエールのほうも、色々研究したようである。

スギ氏はヌメットした、風呂屋の看板のような塗りで、これが好まれないというのはよく判る。しかし、スギ氏の絵は日本の絵のように、床の間に飾る装飾品としての絵画ではないのだ。むしろ、人間や社会の断層を描く事で、見るものに不愉快な思いをさせようとしているのだ。絵画だから心地よい物と決め付ける、日本人の絵に対する、美意識のような物とは、かけ離れた物だ。

日本の伝統にある、陶器の地肌のように、志野焼き風だったり、丹波風だったり、いかにも凝って、その風合いを愛でる。ここに結びつけたところが、和田氏にしてみるとオリジナリティーだ、と主張したところだろう。美術の業界紙の中には、スギ氏へのオマージュとしてみるべきだ。とまだ擁護している物もある。

この背景には、芸術院を頂点とする、日本美術界の伝統的権力構造がある。この中に割り込んで、生活しているのが、功成し遂げたとされる、大家だ。その裾野には、いわゆる業界として、画商や、美術評論家、という人達が、持ちつ持たれつでいる。これは空想でなく、日本の現実の事だ。七色の巨塔だ。

今回の和田氏の盗作事件は、そのボロが少し垣間見えた。和田氏は国画会の押す作家として、芸術院に入る順番にいた。これは、既に芸術院会員を代表として持つ会は、その権威を保つために、新たな会員を入れたいと画策する。これにお金が動くとはよく言われることで、私達が聞くのは、お弟子さんが絵を買わされたという話だ。つまり先生が、お金を必要としているので、お弟子さん達、はこの時とばかり絵を購入する。ここで買わないような者は、当然次の順番からはずされるという話だ。しかし、本当にお金が動くのかは、判らない。

今回は、この持ち上げに、2人の日本を代表する評論家が動いたそうだ。この二人はお抱えの美術雑誌があるので、そこに寄稿した過去の物を読めば、誰と誰かは判る。その2人に国画会からお願いが行った、と見るのが普通だ。国画会には、例えば、島田鮎子氏のように、和田氏より相応しい方がいるのにおかしな事が判る。今度は和田氏を押すので、その筋で動いてください。これは各美術館の館長クラスには、同様の働きかけがあったと思われる。こうやって日本の権威は守られていると、言うわけだ。

それが、今回の盗作騒動で、ばれた。表面化した。誰が、あんな者を押したんだ。絵の事など別にして、動いている美術界の現状が、今回のことで良くわかったわけだ。「あんな、誰が見たって、分かる様な盗作をする人間を、芸術選奨に選んで何が美術館館長だ。評論家だ。」話がこうすすまないように、上手く押さえ込んで、ホッとしているのだろう。

報道という機関が持ちつ持たれつ動いている、事もよく分る。読者には弱い和田氏に対しては、不正を暴く正義の公器としての姿勢を見せ、大きな悪には、話が進まないように、オブラートに包む。お二たりの張本人は基大新聞社の美術記者ですから、この辺は当然の帰結でしょう。

 - 水彩画