私絵画とは何か
2025/09/15
このブログにはなんども「私絵画」のことを書いてきた。私の絵の描き方を考えたときに、私絵画と考えるとわかりやすかったからだ。自分のための自分の絵のことである。できた絵のことは考えない絵の描き方である。
今回水彩人展で、何度か私絵画という言葉で話をした。すると、それは何ですかということになった。話しながら説明はしたのだが、くどくなり肝心の絵の話が遠くなってしまった。何しろ小林秀雄から話さなければならない。
確かに考え出した言葉で、認知されていない。認知されていないだけでなく。言葉から類推できるような適切な言葉でもない。ふさわしい新しい言葉が見つかるまで使うしかないのだが、ここで「私絵画」ということを整理しておくことも意味がありそうだ。
小林秀雄の「近代絵画」という本を高校生の頃、繰り返し読んだ。それが私の絵画というものの基本的な認識になった。そして私の中に残ったものは、絵画は自己表現である。自己表現とは自分を絞りだすものだ。ということだった。
その絞り出す先は社会である。社会に影響を与えるものが芸術だ。と刷り込まれた。確かにその時代はまだ、絵画がわずかとはいえ、社会的なものであった。どの新聞にも美術評が載っていたのだ。各社に美術記者という人がいた。
金沢大学の美術部の先輩には、毎日新聞の美術記者になった元木薫さんという方がいた。若く死んでしまった。元木さんともう一度今の美術の現状を放してみたかった。あれほど頭の切れる人は他に知らない。きっと的確な意見をくれたと思うのだ。
絵画が社会性を持っていたのは、1960年代までのことだったと思う。一年一年、絵画が社会性を失い始めた。どうも社会に影響を与えるような絵画は存在していないようだと思うようになった。そして、一方に社会に向けて矢を放つ、現代美術という絵画があることを知った。
必死に社会に向けて様々な行動を行っていた。私も芸術はそういうものでなければと思い、学び、解読しようとした。現代美術は観念が表現されていた。いわゆる美術とは違うものだった。観念である以上解釈しなければならない。
そうして作品を解読するようになった。仲間内では深読みがはやっていて、どちらが深く読めるのかを競うような状態だった。その時の一番の読み手が、坪田さんだった。学ばせていただいた。彼は現代美術の制作をしていた。その後金沢で現代美術の画廊を運営した。彼も死んでしまった。
しかし、現代美術の付け焼刃も忽ちに剥げて、小林秀雄に戻ることになる。ところが気付いたころには、自己表現をするような絵画は見当たらなかった。何か飾り物のような絵ばかりが増えた。
世は絵画ブームと言われ、絵画は投機商品になった。これから値上りする画家特集などという、雑誌も複数誕生した。正直そのブームに巻き込まれた。画家になりたいと考えていたから、何とか画商と契約できる画家になりたかった。ブームだから、様々新興画廊も現れて、私のようなものの絵も販売してくれた。
そして、売れる絵を目指して描いていた。それはバブル崩壊とともに、終わりになる。私は生前葬個展を文芸春秋画廊で開いて、個展で発表するような画家をやめた。そして、自給自足をすることにして、開墾生活に入る。道を誤っていた。
商品絵画のはずではなかったのだ。自己表現しなければならなかった。もう一度小林秀雄を読み直した。古い世代の人間だ。まず自己表現すべき人間だ。どうしようもない人間の自己表現など見たくもない。
自分を磨かなければならない。自給自足生活で、自分を作り直そうと考えた。しばらく絵も描けない開墾生活に入った。そして気付いたことは、絵を描くことが自分を深めることでなければ、ならないということだった。
ひたすら絵を描いたとしても、それがそろばん勘定であって、より売れそうな、評判の上がりそうな、受賞ができるような絵画を描いたところで、卑しい人間になるばかりだ。そんな表現の絵は描きたくないと考えた。
そして、自分の中を探る「只管打画」に打ち込むことにした。座禅をする代わりに絵を描くという生活である。もちろん不徹底なものであった訳だが、そのあたりに、「私絵画」に入り口があったように思う。
まず、一番やらなければならなかったことは、それまでの自分の絵を否定することだ。身についてしまった自分の絵を否定しない限り、次にはいけない。自分の絵を育てるようなことでは、自己探求にならない。
そして、石垣島に7年前新しい生活を求めて、移住した。それから、徹底して自分を否定してきたつもりだ。それでも残るものを探した。そして、徐々に記憶を描く風景画になっていった。自分が始めて絵を描く方角が見えた気がした。
只管打画と言っても、描くことが楽しくて仕方がない。修業が楽行である。どれだけでも描いて居たい。毎日見ている風景が自分の中に記憶として蓄積されている。その記憶の積み重ねの画像を描く。描きながら、記憶を探り。また目の前の風景を見て確認をする。
描かれた絵が表現としての役割を持つのかどうか。小林秀雄はいつの間にかいなくなった。ただ自分のために描くことができれば、それでいいという気持ちになった。これだけの精神の高揚させるものが、絵を描くという行為にはある。
そうだ、これが私絵画だ。自分の絵が社会性を失おうとも、私が描くという深い精神的な高揚は、かけがないがない。この精神の深い動きを重ねることで、自分を高めることもできるのかもしれない。その時に描かれる絵が「私絵画」である。
結果としての絵のことは、どのように位置付ければいいのかは分らない。ただひたすら只管打画することで、精神的充実を得る。その精神的行為が私絵画である。ある意味もう社会とは関係のない行為である。道元の禅が社会とは関係のないのと同じである。
そう考えるようになり、水彩人の友人、そして世間にすごい数の絵を描く人々。その人たちの中には、どうも私と同じような、私絵画の人がいると気付くことになった。ひたすら描く喜びがあり、その行為に精神の躍動を感じている。
それだけで、社会との関係など考えもしない。どうもこれは大切にすべき、芸術的行為ではないかと思うようになった。社会的認知はされていないが、コンピュター革命後の社会の芸中の在り方を示しているような気がする。
人間がよりよく生きるために必要な芸術的行為として、私絵画がある。その時に忘れてならないことは同志である。禅の修行も一人で行ってはならないと、道元禅師も言われている。迷い道に落ち込んで、禅病になる。
良い仲間とともに求めることが、精神を病まずに正しい修業ができる。私絵画は一人でもできるように見えるが、実はみんなでやるものなのだ。みんなでやるからこそより深い世界に到達することができる。
私にはそういう水彩人の仲間がいて、幸運であった。今見渡しただけでも10人の同志がいる。互いに切磋琢磨して、次の時代の、コンピュター革命後の社会の指針になりたいものだ。次の時代には人間自身の行為の充実が問われることになる。
その行為の質の高さが、問われる時代になる。好きなことに打ち込めばいいわけだが、好きなことがパソコンゲームでは、情けないではないか。奥の深い精神の躍動の生まれる行為が重要になる。