自己確認の意味

      2025/07/31

 

自己を探求している。偉そうに聞こえるだろうが菩薩行の修行者のつもりである。菩薩行とは、悟りを獲得しようと発心したこと。そこには、自分だけが悟ればよいとは考えず、全ての衆生が悟りを得るまで自分も悟りを得ることはない。一切衆生と共に悟りを目指し、一人残らず平等に悟りを獲得するまで修行の歩みを続ける。菩薩行の根底に流れる意味となる。

自己が何か判らないまま、修行は続けられない。自分とは何者か。今ここでブログを書いている自分とは何なのか。自己とは生きて行っている行為のことである。ここでの行為とは、考えて居ると言うことも行為である。実際に行う行動のことではない。

生きている行為として、自分の絵を描こうとしている。まだ自己のなんたるかを判らない修行の身である。修行は絵を描くことを主たることとしている。只管打画である。ひたすら絵を描くことで自己に突き当たろうとしている。苦行というよりは楽行である。苦であれ、楽であれ、行為を突き詰めること。

そして、最近自己がなんたるかが、見えてきたような気がしてすこし嬉しいのだ。15歳から始まったことだから、60年かかりいくらか進んだと言うことなのだろう。最初は死ぬということから始まった。そして生まれてきたと言うことも思い詰めた。そして、生きていると言うことになってきた。

自己とは、自分の意識で見つけるものだと思っていたので、いつまでも見つからなかった。ところが只管打画の中で、私絵画を続けてきて、身体で絵を描くと言うことをにしている。身体化したものが絵を描くと言うことだ。少しわかりにくい言い方だが、わかりやすく言うと、我を忘れて絵を描くと言うことだ。

我を忘れた状態で絵を描いている人は沢山居ることだろう。気がついたら夜が明けていたというようなことは、絵描きには珍しいことでもない。気を失った状態で、絵を描いていると言うことになる。自己滅却して、絵画する。ある意味絵描きにとってはこの姿は当たり前のことだ。

ところが、こざかしい、小さな人間である私は、少しでも良い絵を描きたいという、我欲に支配されて、自分から遠ざかるばかりだったことに気づいた。これに気づいたのは40年前になる。それから迷いながら、自分らしい絵を捜した。ところがこれもまたがよくだった。

自分の画風を打ち立てると言うような、人の描く画面はイラストであり、絵画ではない。このことがよくよく判った。自分から離れて絵を描けるのか。我を忘れて絵を描けるのか。意識のない中で、行為として絵を描けるのか。これが只管打画の道だと考えるようになった。

絵は我を忘れた状態で描かれている。我を忘れるとは、ある意味では絵を描く自己が喪失すると言うことになる。何もない自己が、描くという反応だけになる。この状態に到達するために、絵を描く修行をしていると言うことなのだ。少し生きて行う行為のことが見えてきた。そうこの歳になり、やっと絵を描く修行の方角が見えてきた。

具体的に考えてみる。何故我を忘れて絵が描けるかと言えば、毎日毎日絵だけを描き続ければ、人間は反応になる。そのとき生きていると言うことは残る。我など改めて考えるまもなく、絵を描く反応に自己存在がなり得る。それはつまり、自己を滅却すると言うことと同じである。それがひたすら絵を描く道の心境である。

風景を見て描いている。風景でなくとも肉眼が見たものを思い出して描く。今見ているにもかかわらず、記憶をたどって描いている。見ているようには描いていない。見ていることが発端には成っているのだろうが、出来る絵は見ている者とはかなり異なる。頭の中にある絵を描いているような気がする。

そう気づくのは絵を見ているときだ。描いているときには何も考えて居ない。良い絵にしようとか、完成しようとかも思わない。思わないようにしている。考えることは極力排除する。そして、その日描いた絵を並べてみている。

 

 

 

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