自給体験農場をやっている。

      2025/07/21

 

石垣島に移住したら、農業は辞めることにしていた。70歳になり、絵を描くだけの生活に入るつもりだったからだ。それが、アンパルの会と言う環境団体の事務局の方から、実際の作業は自分たちがやるから、指導をして貰いたいという相談を受けた。指導だけならと思い関わることになった。

ところが指導だけどころか、私以外に作業をやる人は皆無だった。こういうことは何度も経験があるからやっぱりと思うばかりだった。引き受けたら、引くに引けなくなったというのが、始まりである。ただ、干川さんと福仲先生が一緒にやろうというので、頑張る気になったのだと思う。そうでなければ終わっていたのだと思う。

だから、最初に作った人集めのためのフェースブックには石垣島田んぼ勉強会とある。私は田んぼ勉強会の先生役のはずだったのだ。こう言う経験は小田原に居た頃もある。子供の教育組織から、田んぼの指導をして欲しいのだがと頼まれて、指導を始めた。ところが結局のところ、私一人で田んぼ作業をやり、しかも高額な会費まで払わされた。

善意で出来ているボランティア組織というのは、善意の理想主義に浸っていて、責任感のないところがある。良いことをしているのだから、人を利用するのはかまわないと思い込んでいる節がある。これが企業であれば、人にお願いする以上、当然経費や運営がその前提にある。

こうして始まってしまった、石垣島田んぼ勉強会ではあったが、崎枝に移るときにかなり考えを変えた。私がすべてをやるべき「のぼたん農園」に変えた。関わってくれて、何かをする人が居てくれれば、それはすべてが手助けであり、有り難いことである。と考えることにした。当然経費もすべてを笹村個人で出す計画で考えた。

しかし参加者から会費も出したいと言うことで、一単位で一年1万円貰うことにした。一単位とは2セの田んぼと1セの畑である。つまり100坪である。今8グループになっている。100坪で人間一人は自給できるという、自給農園の体験場なのだ。一単位でお米で言えば、1年100キロは採れる。畦で大豆が10キロは取れる。野菜も自給分は出来るはずだ。

何故こう言う形に考え方を変えたと言えば、死ぬまでの間、一人でもやり抜こうと考えたからだ。最後の仕事だと気づいた。たとえ誰も一緒に働こうという人が現われないとしても、何としても、自給農業技術の完成する覚悟をしたと言うことになる。それが現在37人も協力してくれる人が、現われたのだ。有り難いことだ。

そう考えを変えたときから、毎日が有り難いの連続である。最後の仕事のぼたん農園の実現をみんなで手伝ってくれている。石垣島に移住して来た人たちが多い。移住者は移住を決意するということで選抜されている。夢見る人が多く、現実離れしている。まあ私もその一人である。

常に新しい人が現われてくれている。新しい人がのぼたん農園に、新しい色づけをしてくれる。もちろん去るのも自由である。良い思い出になれば良い。緩やかにのぼたん農園の枠組みを考え、農園の継続を図る。自給農業技術の確立と言うことだけを、抑えておけば後は仲良く、働ければと言うだけである。

一つここでやっては行けないことがある。正論で人を責めてはならない。互いに補い合い、感謝して、ユイ、ユイ、ゆいまわーる。人を責める人が自給農業をやるのはかまわない。大いにやるべきだろう。ただ、一人でやれば良い。一人でやれる場は紹介する。

のぼたん農園を始めたので、やらないはずの農作業を、小田原にいたときと同じように再開することになった。体力が落ちて来ている分、作業もはかどらないのだが、その分機械を使い、頑張っている。もう無理なので止めるはずだった農作業を、10年間も長くやろうと変えることが出来たのは、のぼたん農園の理想に向かうことにしたからだ。

石垣で描く絵に、農作業が力になっている。前にも書いたことだが、私の絵は身体化して描くものである。身体がこの石垣の土地にどう反応しているかは、耕して初めて判ることだ。毎日働いている畑を描くことは、見ているだけで描くのでは、何かが違ってくる。その違ってくるものこそ、私の絵だと思っている。

もちろん勝手な思い込みである。そう思い込んでやる方が良いではないか。この田んぼで取れたお米を食べて居るぞという思いは、必ず絵に表れる。海を描いているときに、海に対する大切なことが絵に出てくる。このわずかな絵の重さの違いの積み重ねが、自分の絵に至る道である。

ここで、そうだ。私の絵を見て見ろ。と言いたいわけだが。残念ながら未だ至らず。ただそうありたい。というあたりまで来たに過ぎない。つまり、まだまだ絵はダメだと言うことだけは判ったと言うことである。ではどう言う絵か。と言うことが毎日の創作である。ダメが判るだけでも、一歩前進である。

のぼたん農園で絵を描く安心立命である。ここで生きている。生かされている。という安心である。自分の手で自分が食べる物を作れるという感謝である。そうしたことが、目の前の畑であり、海であり、空である。江戸時代の人たちの自足安寧はここにあったのだと思う。

世界は格差が広がり、弱肉強食が目立つ。このままでは人類は滅亡が近いのではという悲観になる。だからこそというか、仕方が無いからと言うか、自給自足で生きるという原点を、科学的な姿勢で構築する必要がある。宗教的でなく。自己中心的にでもなく。普通の人が誰でも出来るようになる、自給自足の農業技術の確立。

これが、のぼたん農園を始めた理由になる。辞めるつもりだった農業に、もう一度挑戦することにした理由である。まだまだであるが、80歳までのあと5年元気で動ければ、何とか道筋は着くのではないかと思う。野菜については、どうも崎枝の山にいる窒素固定菌の利用ではないかと最近思っている。

渡部さんの畑で、今年レタス、タマネギ、トウモロコシが出来たのだ。その理由は明確には分からないが、作物が出来たことだけは事実だ。正直化学肥料でも入れたのかと思うほどだったのだ。情けないが頭が化学農業に洗脳されている。入れたのは山の落ち葉だけなのだ。

あれで作物が出来るはずがない。石垣の土壌は腐植がほとんど無く強い太陽光に長年さらされて、砂漠のような状態である。ここに作物を植えて出来るはずがない。そう何度やっても何も出来ない。腐植を時間をかけて増やすほかにと言うのが、今までの挑戦だった。

ところが、渡部さんの畑では突然、作物が取れだした。全く驚いたのだが、まず、トラックターで、畑を始める前に4回。耕して石拾いをした。草一本無い状態である。そのときに、1セの畑に山の落ち葉をコンテナ4つほど撒いた。それをトラックターで、またすき込んだことになった。そしてその畑を、四角い2.5×5mのベットの状態に高くした。

そして、タマネギを植え付け、大豆を蒔き、レタスを蒔き。とおもろこしを植えた。ともかく植え付ける前も、植え付けた後も、何度も何度も草取りをしていた。そしてどれも立派に収穫まで進んだ。大豆は小糸在来種なのだが、初めて豆にまでなった。石垣島では初めてのことだった。

草取りも何か意味があったのではないかと思われる。窒素固定菌は草がたくさんあるような畑ですき込むようなことをしたのでは、活動しないらしい。窒素固定菌はむしろ、何も窒素分のない土壌で、窒素を増やそう増やそうと活動をするらしい。これから渡部さんの畑での成果を参考に、大豆畑で実践してみる。

この渡部さんのやり方をまねて、そして台湾で教えていただいた方法で、新しい大豆畑で試してみようと思う。8月25日に播種するという、台湾の嘉義で教えていただいたやり方である。日本にはもう居なくなった、台湾の百姓魂から学びたいと思う。

今新しい大豆畑を3セほど作っている。4回耕した。22コンテナの落ち葉を入れた。石を3回拾った。もう一度落ち葉とよみがえりたい碑を入れて、畑の準備を終わる。新しい肥料分の全くない土壌である。ユンボで掘り起こし平らにした。畑の周りをユンボで溝を掘っている。次にトラックターで耕して、石拾いをしている。

落ち葉をとってきて入れて、再度トラックターで耕した。60㎝畝を作る。畝底に出来た大豆の苗を植え付けるのが良いかと思う。中高除草の土寄せをしながら深植えにする。水牛に溝掘りをさせたらどうだろうか。7月中に畑の準備を終えたいと思う。種を蒔いたならば、防虫ネットを張る予定だ。

そして、8月10日ぐらいに苗作りをして8月25日には植え付けを行う。9月に無って、渇いたら水やりをお願いする他ない。9月に入ると展覧会で東京に行く。タイミングが悪いために、2週間早い種まきになる。これで大豆が出来れば、いよいよ、窒素固定菌の可能性が出てくる。さあ、どうなるだろうか。

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