石垣島移住記

      2025/07/22

定年移住というものが、普通にあるような時代になった。定年する年齢になり、ある程度の年金があり、収入が確保されての移住である。石垣島に移住する人にはかなりの数そういう人が居る。私もその一人である。賑やかな都会が好きな人も居れば、美しい南の島が好きな人も居る。それぞれの選択である。

子供の頃からの田舎好きである。と言うか都会に長く居るのでは苦しくなる性格であった。たまには都会も良いのだが、到底息苦しくて、空気が臭くて暮らしては居られない。自然の景観が見られないと言うことがもう耐えがたい。山の中の一軒家で育ったためだと思う。いつも田舎に暮らしたいと願っていた。

日本人の多くがまだ田舎に繋がりがある人がいる。その意味では私と似たような人も、案外にたくさん居るのかもしれない。条件が許されれば、どこか田舎に移住したいと考えている人も居るのだろう。故郷であったり、南の島であったりするのだろう。そう思うと、今体験していることを記録しておきたくなる。

2回はやれないことだからだ。移住を間違えば、悲惨な老後になる。70歳になったら最後の移住しようと考えた。あと10年動ける身体だと思えたので、その間に一番好きなところに、つまり絵が描きたくなる場所に移住しようと考えた。日本中ほぼすべての場所を絵を描いて回ったので、日本のだいたいの場所は判っていたつもりであった。

海外移住は全く考えなかった。海外で絵が描きたいとは思わないのだ。一番好きな台湾ですら、まだ絵を描きたいと思ったことがない。フランスにいたとき風景を描きたいなど全く思わなかった。ア島を離れて、島を離れて、一度は遠くまで行きたい。やはり台湾よりも、まずは昔描いて歩いた日本のあちこちである。

一年中アトリエカーで絵が描ける場所と言うことで捜した。寒いところでは無理だと言うことはすぐに判った。寒がりである。一年中アトリエカーの窓を開けて絵を描くには、暖かい地域である。四国、九州、沖縄という選択になる。暖かいところへの移住は、間違いなく寿命を数年長くしてくれる。

どこでなければならないと言うこともなかったのだが、移住地を捜して旅行に来ていて、石垣島で田んぼの絵を描いた。この田んぼの面白さにはまってしまった。直接の田んぼが面白いと言うこともあったが、田んぼや空や海の作り出す空間に、完全にやられた。その描いた場所が、のぼたん農園の場所なのだから、今の暮らしは奇跡が起きたようなものだ。

田んぼの絵が描けないところでは、結局我慢が出来なかった。四国、九州も好きな場所が多くて、候補地ではあった。瀬戸内の島。四万十川流域。宇和島の斜面畑。平戸の海。阿蘇の高原。行くことにすれば、もっと良かった場所があるのかもしれないが、それぞれに良さがあり決めた土地で、その地の新しい暮らしが始まったに違いない。

どこでもやっていける人間である。良く田舎の人付き合いが問題とか。景色の良さなどすぐに飽きるとか。都会の便利さに戻りたくなるとか。様々に言われているが、そんな点では何の心配も無いと思う。それは人次第だ。どこでもやれる人も居るし、どこでもダメな人も居る。

都会でダメな人は田舎もダメだろうし、場所は基本関係が無い。年寄りの暮らし方が見つからない人は、場所を変えたところで暮らしが見つからない。問題は若いときの暮らしは仕事に制約されている。私でさえ、世間の目が気になって早く隠居仕事ですと言いたいと思っていた。

定年移住は仕事の問題が小さい。収入が必要という人であれば、事前に仕事探しをしなくてはならない。移住はよほどのことでなければ止めた方が良い。年寄りであれば仕事は限定されるし、沖縄の仕事は野外作業は年寄りにはほぼ無理である。特別の技能や資格があれば、それが移住先で可能かどうかの下調べが必要になるのだろう。

収入がいらないという人であれば、自分の好みに徹することが一番良い。一つ考えたことは住居には景色入らない。どうせ、アトリエカーで絵をかきに野外にでるのだ。家は暮らしの利便性だけで考えた。歳をとれば、当然歩いてすべての暮らしが、行える場所が良いに決まっている。呼べばすぐタクシーが来るくらいの場所でなければ無理だと考えた。

市役所、病院、郵便局、銀行、5分圏内が良い。そう思って選んだら、市役所も病院も遠くに移転した。そんな物だ。今の所は、それで困ったと言うことはないが、車の運転が出来なくなったらどうなるかとは思う。車を持つか持たないかも、場所選びの分かれ目になる。車を持たないなら、町場以外にない。車は遠くないうちに乗れなくなる。そう考えたのが今の石垣市字石垣という場所だ。

しかし、石垣に来て車はまだ当分乗れると考えて居る。小田原では今でもあまり乗りたくない。必要最小限だけ乗っている。車の運転を同じ道だけに限定している。当然そう言うことになるのだが、判った道を同じ時間に通るのであれば、車に乗れる期間は大分延長できる。

予定のあと5年は何とかなりそうだ。その先のことはあまり考えて居ない。80歳の年寄りになれば、5年先のことなど考えても無駄である。その日暮らししかない。そう思うと、あと5年でのぼたん農園を完成させなければならない。何とかなりそうになってきている。ここで頑張らなければいつ頑張る。

それは良い仲間がだんだんに集まってきているからだ。結局人との関係だけなのだ。今のボタン農園には37人の仲間が居る。濃い関わりの人も居れば、遠い関係の人も居る。面白い人たちとここで出会うことが出来た。これは、のぼたん農園という場が存在させたからだ。自分から動かなければ何も始まらない。

一人一人がのぼたん農園との関係性を捜している。それは全く違う内容なのだろう。その違いを受け入れることの出来る、器としてののぼたん農園でありたい、と考えて居る。かなり違う人でも、それぞれの希望に添ってここで生きることが出来る場所でありたい。この場を壊してしまう人だけは困る。

石垣島に移住するという、人間の選抜が起きている。石垣島に来て、生きてみようという選抜は、独特の選抜である。これが西表島という選抜もある。もっと特殊な人を選んでいる。私には、石垣島という、普通の観光地であり、何でも売っていて、それなりのレストランもあるような場所。これが適当な選抜だったのだろう。

普通の暮らしも一応考える人。普通と言っても何が普通なのかは難しいのだが、東京と大差ない暮らしがないわけではない暮らしと言えば良いのだろうか。その上で、かなり特殊な生き方や、自給的体験を模索している人。ある程度自立している人が多いというのも、小田原の農の会と比べると判る。

それは、自立していない人にはかなり面倒くさい暮らしなのかもしれない。のぼたん農園の今は38人であるが、間違いなく100人ぐらいの人間が、関わり残った38人なのだろう。名蔵で立ち上げたときに、集まった50人以上の人の内で、今残っている人は10人くらいだろう。

様々な人が関わり、去って行く。そしてだんだん、関係が濃くなりながら、38人になっている。38人というのは、ラインに登録している人のことなのだ。登録をしていない人でも、関係が深い人も居ないわけではないし、登録をしていても、ほぼ関係が無い人も居る。関係は緩いほど、曖昧なほど良い。組織というと縛りを明確にしたいという人も居るので、そうならないようにしている。

禅堂の入り口には脚下照顧という看板が掲げられている。尋ねてきた求道のものに対して、「おまえはなにものだ。」こう問いかけている。実に偉そうなことだ。これが宗教としての禅宗が嫌だった理由だ。何者であろうとかまわない世界が良い。「ダメでも良いジャン」は言い訳でもあるが、許しでもあるのだ。

少なくとも石垣島には、のぼたん農園という場所がある。ここは、実に緩い場所なのだが、ゆるすぎるために、本当に自分で生きようとするものには、厳しい場所にも成る。何も言わない。何も言われない。しかし、自給をするという看板は掲げられている。「地場・旬・自給」を目標としている。人にまで押しつけないようにはしているが、やはりつい口にでてしまう。自戒。

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