絵は身体で描く
絵は身体化したもので描くものだと考えて居る。頭で描くものではもちろんない。腕前だけでは絵にならない。絵を心で描くなどと言うのは、さらに遠い考え方だと思っている。心があるとか、感性が豊などと言うのは、制作するものの考える言葉ではない。鑑賞するだけならそれぐらいでいいかもしれないが。
絵を描く者が感性で描くなどと考えれば、見当違いの話になる。絵は身体で描くものだ。それは絵は本質だけを描か無ければならないものだからだ。頭で描けば、観念的な物になる。感性で描けば尾ひれだけの物になる。身体的な行為にまで突き詰めなくては、絵が本質に至ることにはならない。
感情表現などという世界は、芸術とは遠い場所にあるものだ。音楽で言えば演歌とバッハぐらいに違う。演歌が心に響くと言うことは否定はしない。しかし、ここで言う心は日常の中で揺れ動いているこころだ。人間の生きるの底に存在する、芸術の世界は絶対的な世界だと想定している。
宗教も芸術も、その揺らいでいる日常的な心の世界を、掘り下げ、揺らがない絶対的な世界へ、眼を開くものでなければならない。具体性のある絵という「もの」で、世界には、揺るがない真実が、存在するという実感を伝えるものでなければならない。絵を描くものが目指すべき方角だ。
心で描くと言うぐらいなら、まだ頭で描く方が増しなくらいだ。心などというあいまいな表現の言葉で、絵を考えてはならない。感情というものは確かにないわけではない。しかし、絵を描くときはそう言うこととは、感情から最も遠いところで描かなくてはならないものだろう。
美しいは絵の入り口ではあるが、美しいのその先にある真実であるまで、絵は迫って行くものである。世界が何故美しいのか。人間は何を美しいと感じるのか。そうして美の奥にある、世界の存在の調和とでも言うものを、絵によって表現すべきものではないかと考えるようになった。
心でとか、感情的に描く。このような絵は最も忌むべきものだと考えて居る。感情的に流されない、絶対の世界を探求する絵であるべきだ。では頭で描くかと言えば、それはまた違う。頭脳で描くなら、コンピュター絵画が一番だろう。今の私には、やはり絵は身体で描くとしか言いようがない。
身体で描くという言い方は確かに、あいまいな言い方で意味不明かもしれない。むかし、アクションペインティングというものがあった。アメリカという芸術新興地で生まれたものだ。直接的な肉体絵画だ。一言では難しいが、行為が素材と格闘をすることで反映する絵画。とでもいうのだろうか、ポロックとかデクーニングを思い出す。日本では「具体派」と呼ばれる前衛集団がいた。芸術とは関係が無かったと私は考えて居る。
身体化した絵画はそれとはまったく異なる意味である。繰り返し習慣のように描くことで、脳の作用から離れて、肉体的反応として絵を描くことといえる。考えないでも歩けるような身体的運動にまで絵を描くことを、反復すると言うことである。何をどう描こうというような意識から離れて絵を描くということになる。こうあるべきという世界観を忘れ去ったところにある絵画。
只管打坐により座禅が行為としての意味が変わるように、只管打画によって、絵を描くという意味が変わる。世界観を示す絵画と考えて居る。道元禅師の言われる只管打坐である。座禅を行うことがすべてであって、その先があるわけではない。座禅は悟りに至るための手段ではない。
只管打坐により座禅そのものになること。只管打画によって絵を描くことそのものに、なりきること。描くという行為に対しての無念無想である。描いている自分というものが、消えて行く。描いている行為だけになる。描いているという意識から離れる。反応として描くことになる。
その意味で禅画と呼ばれてきた既存の絵画とはまるで異なる。多くの禅画は禅宗の教えを絵にしたようなものだ。あれはくだらない。あるいは禅僧の境地のような世界を絵として現わしたものもある。そういうものは絵画ではなく、説明図や解説図である。
絵が自分の表現を越えて、自分の行為になる。行為の結果として、世界が現われる。ただ自分の絵であるだけという世界。問題は只管打画である。道元禅師は何も生み出さない座禅という行為にこそ意味があるとした。しかし、俗物であり、乞食禅しかできない私は、絵というものをよりどころにしないではいられなかった。
絵を描くと言うことは絵というものに依存していると言うことで、生来無一物の心境からは遠いところにいる。道元禅師だって、座禅に依存していたのではないかと思うことにしている。まあそうではなかったのだが。しかし、私はそうとしか生きることが出来なかった者として、絵を描いているわけだ。
絵にすがっているのだから、情けないことではある。偉そうなことは言えないが、ダメだって良いじゃん。そう思って生きる他ない。私の人生である。のこりは4分の1である。4分の3は計画通り来たとも言える。後4分の1を絵を描き尽くしてやり遂げてこそ、意味があると思う。
ダメであることだって、ダメになりきることが出来ればそれはそれなりの世界があるだろう。そう思って絵を描いている。だから半分の真実だと思っている。インチキの、イサギの悪い生き方である。これしかないと言うところに、76年生きて来て、はまったと言うところのようだ。
横尾忠則さんは絵は身体で考えて描くと朝日新聞に書かれていた。有料記事なので、その題字しか読んでいないが、何故身体で描くではないかと言えば、身体で描くではアクションペインティングと混同されるからだろう。横尾さんは私より12歳も上で、そういう世代の中にいた人なのだろう。
もう世界的なイラストレイターだった、横尾忠則さんを記憶にない人の方が多いのだろう。今は文化功労賞で芸術院会員の画家の横尾画伯である。もう少し長生きすれば文化勲章画家だろう。横尾さんが行われている絵画方法は、私にとって一番近いような気がしている。だから偉いという意味ではない。
絵においての問題は横尾さんという人間である。横尾さんそのものである絵画であろうとしたときに、横尾さんが感動できる真実に生きる人でなければならない。そうでなければどうでも良い横尾さんの絵に過ぎないことになる。それでは絵画としての価値はない。その人間が真実であるかどうかだけが、身体で考える絵画では問題になる。
自分を人間として高めて行くことが修行なのだ。修行を続けない限り単に自堕落な絵になるだけだ。苦行もあれば楽行もあるとは思うが、ただ身体で描いたとしても、その背景となる人間が、高い境地のものでなければ、芸術とは言えないのだろう。ここからが画行と言うことになるのだろう。
私は自分を戒める意味で、肉体によって自給自足に生きるという、基板を作ることにした。それで初めて只管打画が許されると考えた。自給自足に生きることを行の大前提と考えた。千日回峰行がお布施によって成り立つと言うことが、私のような乞食禅の人間には、許されなかった。
自分の足で立つ。絵を描くというようなことは、それからの問題だと考えて居る。日々の暮らしこそ、自分を高めることだと思う。自分が人に伝えるべきものを持たなければ、人に伝えるべき世界観のある絵を描く意味が無い。どこの誰の世界観が表現された絵だから見たい、そういうものだろう。
まだまだだと思わざる得ない。しかし、方角は間違っていないようだ。後はひたすら描くのみだ。予定ではあと25年ある。面壁9年が、2回以上も出来る。日々新たな気持ちで、挑戦を続けて行きたいと思う。100歳になったときに、どんな絵を描いているのか楽しみだと思う。