白鳳宮城野親方の退職

   

 

大相撲は好きだ。場所が始まると半分くらいは見る。なかなか全部を見る時間はない。昼間見れないときにはYouTubeなどでみたい取り組みを見る。他のスポーツはまず見ないのだから、相撲好きと言えると思う。石川県の津幡出身の大の里は学生時代から、追っかけるように見ていた。日体大の中村選手だ。少し立ち腰気味ではあったが、前に出るだけで押し出してしまう相撲が多かった。圧倒的な強さだった。横綱になる器だと思っていた。それにしてもたちまち横綱になったのには驚いた。

同じ石川県の輪島の19場所で横綱という記録を12場所で抜いたのだが、この記録は破れない記録になるはずだ。輪島は学生時代も輪島で本名で横綱を張った。年齢的にはもっと若い内に横綱になった力士はたくさんいる。いまでは、学生相撲と大相撲との、練習内容に差がなくなった。高校の相撲部まで同じである。昔は小学生から相撲部屋に入るような力士もいた。

大の里の師匠二所ノ関親方になった稀勢の里も良い横綱であった。相撲を論理的に考える人だったので、その指導も良かったに違いない。早すぎる横綱だが心配はいらない。多くの部屋が、古い体質の相撲部屋特有の無理編にげんこつの稽古ではなく、スポーツとしての合理的で、理にかなった指導が普通になっている。そうでなければ今時の若者に我慢が出来るはずがない。

この盛り上がったところで、白鳳宮城野親方が相撲界を去った。平成以降に在位していた横綱15人のうち定年前に退職するのはこれで6人目だ。相撲協会の幹部に問題がある。相撲取りだけで組織を維持するのは無理だと思う。大横綱が、相撲協会の平親方から務め直すと言うことが、難しいのだろう。相撲協会としては仕方がないことだったようにも見える。ま心の心のどこかで良かったと思いも湧いてくる。

このまま相撲協会の幹部と、対立したままでは、両者ともにまずいことになる。人気横綱が、次々に辞めている。横綱時代の扱いと人気で、下積みの親方では収まらない。白鳳はモンゴルから若い頃来て、日本という社会を理解できないまま横綱になった。相撲取りとしてはそれでもいいが、協会の仕事はそれでは出来ない。能力の高い白鳳は、たちまちに協会を率いるぐらいの気持ちだっただろう。

所が協会としては品格を理解出来ない親方が、品格のない力士を生み出して、相撲協会を変えてしまうことが恐ろしかったのだと思う。白鳳には価値観が強さと関係が無いと言うことが分からないようだった。強ければそれだけで良いというのでは、大相撲の横綱ではない。

強いほどに、品格を高め穏やかな姿勢になり、子供にも優しい力持ちになる。そのように期待されるのが、横綱である。そんなことはどうでも良いというファーンも出てきているが、やはり本筋はここだと思う。偉い坊さんほど普通の人になるというようなことと同じだなのだ。本当ににそうなるかどうかとは別だが、ともかく振る舞いはそれが期待される。

横綱が張り手や、エルボーブロックの立ち会いを、多様するのが情けなかった。たぶん品格などというルール上にないものの必要性を、理解しないまま相撲界を去ることになった。モンゴル出身の力士にはそういう人が多い。照ノ富士はどん底から這い上がった横綱だったから大丈夫だろうと思うが。朝青龍、日馬富士、横綱が退職勧告である。

横綱に上り詰めて、天狗になってしまったところが実に情けなかった。きっとモンゴル相撲の横綱はそれで許されるのだろう。むしろそれが期待されるのかもしれない。モンゴルには相撲があるので、他の外国人力士のように白紙からではないのだ。優勝インタビューで万歳を観客に要請したときには、あきれて開いた口が塞がらなかった。理解していないと言うことをさらした。世間では何が悪いんだとと言う空気もあったが。

だからといってモンゴル出身力士を、民族的に批判するわけではない。日本の相撲がモンゴル相撲になって貰いたくはないファーンの思いだ。日本の文化としての相撲を楽しみたい。日本人がモンゴル相撲の力士になれば、モンゴル流にやるべきだ。今回の問題で、白鳳の振る舞いに違和感はなかったという、第三者委員会の副委員長の方が意見を述べている。

この人は相撲好きではないはずだ。相撲で何が楽しいかが少しも分かっていない。委員である以上大相撲を理解した上でやるべきだ。と言うか、時代錯誤感があるところが、相撲の格別の味なのだ。これが、オリンピック種目のようになれば、芸能としての楽しみは消えて行く。

強ければ良いというわけではない。このところがどうも伝わらない。確かにそんなことはルールにはない。勝負は勝てば良いと言えばその通りであるが、卑怯な技での勝利は横綱の勝利ではない。そういうことが、分かってもらえなかった。双葉山を尊敬していたと言うが、双葉山の相撲はまさに品格のある相撲だ。そういう横綱が、親方になりどんなことになるか心配していた。

予想通りとんでもないことになった。宮城野部屋には、強ければそれでいいという北青鵬という力士が現われた。この力士はとんでもない不祥事で、力士を辞めさせられた。その不祥事の内容はあまりにひどいので書くことも出来ない。そのときに、宮城野部屋は閉鎖された。白鳳宮城野親方は伊勢ヶ浜部屋の部屋付親方として、謹慎させられた。指導力を鍛え直せと言うことだった。

それに対して、世間的には八角理事長の嫌がらせだとか、処分が不平等だとか盛んに批判があった。確かに不平等な処分だと言う意見は、理解する。が、そうした方が良いと私には思えた。相撲を学び直して貰うという意味で、特別に白鳳宮城野親方は重い処分になった。その背景の理由ははっきりしている。人気のある白鳳宮城野部屋のやり方で、強い力士が多数出てくれば、大相撲の伝統が崩壊するという不安だったはずだ。貴ノ花の場合も同じである。協会の幹部に育つためには、大横綱の再教育が必要ではある。

強ければそれでいいという思想、白鳳には特別の指導力がある。どんどん強い力士が産まれそうな気配だった。このまま行けば、大相撲は変質すると思われた。そこで不平等な、処分になったのだろう。この苦渋の判断はやむを得ない物と思えた。これは人種差別とは違う、伝統芸能の世界の深刻な問題なのだ。現代社会で言えば、不当なことではある。相撲は伝統芸能ではない。確かにそうだが、伝統芸能的な側面が相撲の面白さなのだ。

大相撲が今の形になったのは、様々な知恵が塗り重ねられ、興業であり、神事であり、スポーツであるという微妙な構造で均衡を維持している。わずかなほころびで、根本がひっくり返る微妙さがある。ひっくり返ってかまわないという考えも当然ある。しかし、ただ勝てば良いではない世界をみたいと思うので、白鳳宮城野親方を不平等に厳しく処罰したのは、受け入れることが出来た。

貴ノ花の時は少し違うと思えた。あのモンゴル力士、貴ノ花部屋の貴ノ岩に対する暴力事件も白鳳が絡んでいた。貴ノ岩がガチンコ相撲で、先輩のモンゴル力士に勝ったために起きた事件だ。だから、貴ノ花には許せなかったのだ。白鳳は賢いから自らは手を出さないが、実はモンゴル力士社会を仕切る親分のような存在で、忖度した日馬富士がつい手を上げた事件だと想像している。貴ノ花部屋のガチンコ相撲を許せなかった事件だ。照ノ富士も同じような制裁が与えられたことがある。しかし照ノ富士は、我慢をしたが、痛めていた膝をさらに悪くしたと言われる。

そして、白鳳はモンゴル力士への処分を差別と受け止め、内心認めるることが出来ないまま、一年間謹慎をした。何故自分だけがひどい目に遭うのかと、憤懣やるかたなかったのだろう。白鳳は反省をしなかった。一年の処分が経過しても、宮城野部屋の復活はなかった。このまま、伊勢ヶ浜部屋付親方でいれば、何と新しく伊勢ヶ浜親方になるのは照ノ富士である。

自分が散々いじめてきた、モンゴルの後輩照ノ富士の下で、部屋付親方をしなければならないことになった。照ノ富士は無理矢理長時間白鳳から正座をさせられたことで、膝を悪くしたと恨みを持っているとされる。その照ノ富士の下で働くと言うことは、いじめに遭うということになる。さすがに耐えられなかったと言うことになる。

一般社会の価値観で相撲の世界を判断してほしくない。相撲がオリンピック種目になることも反対である。ちょんまげを辞めろとか、回しを辞めてほしいとか、いろいろ出てくるだろう。このおかしなしきたりをあえて残す世界がいかにも大相撲なのだ。江戸時代の世界観が残っている。封建時代の古風なしきたりがいくらか感じられる。

それは確かに虚構なのだ。歌舞伎と同じである。落語と同じである。江戸時代から続く、伝統工芸の世界でも同じである。親方と弟子の世界があると思いたいのだ。形だけでも踏襲して貰いたい。ここに無理が生じるのだろうが、現代社会の中で受け入れられる範囲で、できるだけ長く続けると良い。今から100年後にはその意味がさらに評価されるはずだ。

ただ、今の相撲協会幹部は大丈夫かという不安はある。千代の富士、貴ノ花、と白鳳と並ぶ名横綱が協会と良い関係ではなかった。幹部のもと力士は自分たちより世間の人気や評価の高い横綱親方を避けようとしていないか。親方になれば、下積みからやれと押しやっていないか。これは白鳳問題とはまた別問題だ。看板を自ら汚しているような物で、組織としてはもったいないことだ。看板をうまく生かした方が良いはずである。

相撲の力士だけで相撲協会を維持するのは、難しいのではないか。昔の大相撲は相撲取りが取り仕切る背景に、様々な支援者が居て指導監督をしていたのだ。大きな興業団体になって、様々な難しさが生じているのではないだろうか。特に社会の変化にどう関わるのか。ここに見えない形で、興業を押さえてきた地回り組織との関係などもあるだろう。相撲協会の中に、相撲に精通した、相撲好きの法律顧問を入れる必要がある。

次の白鳳が現われないためにも、手を打つ必要がある。日大の相撲部のことから想像できる、大学の相撲部がどう言う関係になるのか。さらに鳥取の方の高校から見えてきている、高校から来る留学生の問題など、教育と相撲との関係も、大問題が起きそうである。まだ日本各地に残る、神社の相撲などとの関わりなども考えて行く必要がある。沖ノ島や奄美富士には、そういう伝統相撲との関係が感じられる。

沖ノ島は神様の代わりに相撲を取っていたような感じがした。もう勝負を越えて、興味深かった。沖ノ島の歴史が生んだように勝手に楽しんでいた。伝説である。お話である。事実はコウだとかとは関係がない。まだ伝統相撲が生きている地域が日本にはあるのだ。その地方に残る神社信仰との繋がりは、相撲博物館で掘り起こしても良い歴史的痕跡ではないだろうか。

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