絵を真似ると言うことと、絵を創作すると言うこと

   



 絵は真似から始まると良く聞く。子供のころ人の顔を見て描くことは出来なかった。顔には線はない。クレパスの絵の具には無い色をしている。しかし、顔を表す文字であるへのへのもへじは描くことが出来る。顔を描いた絵を見て顔の描き方に気付いた。

 それは図として描かれたものを、これが顔だと教わり、それに従い真似をすることは、見て描くとは別な行為で、それらしく顔が描けると言うことだけのことだと言うことを意味している。そこに描かれた図は実際に見ていると顔とは違ったものだったのだ。当然なことだが、それは顔という図であり絵ではない。

 絵は創作であると言うことに気付いていない絵が多いと言うことである。出来上がった絵を写して出来たものが大半だと思う。それは美術品ではあっても、芸術としての絵画とは関係のないものになる。このことはいつも重要なことだとおもっている。

 絵画の勉強というものは完成図を真似て描くというものであった。それは日本画の世界では今でも残っている。戦前までの学校教育の中の美術は、お手本の絵を真似て書く書画であるのが普通の方法と考えられていた。まだそういう世代の方がいくらかは残っているのではないかと思う。

 絵を学ぶと言うことは真似ると言うことだとまで言われる。確かに間違いでは無い。日本の絵画は創造性よりも、美術品としての完成度が問われるところがあり、磨き上げた装飾品と言うことが当たり前のものなのだ。そもそも日本の絵画は芸術と言うより、美術品だったのだ。

 美術品を作る職人としての仕事を、絵画作品として認めてきたのが日本の伝統絵画である。音楽で言えばクラシックの演奏家に近いのではないか。演奏家に作曲家を求めてはいない。絵画制作者に作品の創造を求めていないのが日本の絵画の流儀なのだろう。

 1000年間かけて出来上がった様式の絵画を模倣するのが絵を描くと言うことになる。これは今でも払拭されたわけでは無い。自分の中に知らない間にそういう絵の要領が入り込んでいるのが嫌だ。だから、絵を勉強すると言うことになると、デッサンからと言うことになる。ここでのデッサンとはそっくりに写す技術という意味である。

 明治時代の学校教育の美術では、絵を写すと言うことが授業内容であった。これは書道が書写とよばれ、出来上がった字を上手に真似ることが授業内容であるのと同じことである。芸術としての絵画はそういう物ではないという話は、それほど古い話ではない。岡本太郎氏はそのことを盛んに書いている。芸術は爆発で、床の間の置物や建具職人が作る襖では無いと言うことだ。

 創作するとと言うことは、未だかつてないものを作り上げると言うことで、職人仕事とはまるで違うものなのだ。まったく正反対というべきだろう。ところが、学校教育でも芸術の時間では無く、美術の時間であるように、出来上がった美術品を上手に真似ると言うことがすり込まれている。

 そもそも日本の美術学校の受験には石膏デッサンというものがあった。今でもあるのかどうかは知らないが、50年前のフランスの美術学校の入学試験を受けたときの実技にはデッサンというものはなかった。

 作品10点とスケッチブックの提出を事前に行う。その上で実技である。好きな画材を持ってゆき、一日かけて描けば良かった。当たりにいる受験生を見ながら教室を描かせて貰った。フランス人はこう言うときに、あまり気付かないものだ。

 私は隣に座ったまるで素人の日本人の絵もついでに描いてやった。完全な素人だったからだ。話していたらなかなか良さそうな人だったので描いて上げたのだ。絵は同じアパートの画家から借りて提出したと言っていた。カルトセジュールが欲しくて受験したと言っていた。

 何も無い教室のその場で絵を描くことが試験だった。入学してからもデッサンの授業はあったが、生の人間を描くデッサンである。デッサンの先生から、出来上がった作品の模造品である石膏の模写など何の意味も無い。生の人間から学ぶのだと言われた。生の人間がいつでも、それは夜でも書ける環境が準備されていた。

 ギリシャやローマ時代の大理石彫刻を模した、石膏像を本気で描けるというような人が、そもそも芸術家になれるのだろうか。高校生の頃からそれは違うとは思っていた。違うとは思っていても、結局そういう勉強をしなければ、日本では美術学校には入れないという不思議である。まあ、訳の分からない数学をやらないと、文学部に入れないのと同じである。

 ついでに書いておけば、古い中国の絵画の学習法は、石を描くことであったそうだ。石を描き、深山幽谷を探求するのだそうだ。岩の存在に向かい合い絵を描くと言うことを繰り返す。これは石膏像を描くよりよほどましかと思う。

 ものを写す力というようなものは自然と身につくものだ。描きたいものを描くことしかやらない方が良いと思う。デッサンからやるなど無駄だから止めたほうが良いというのだが、奇をてらってわざとそういう変なことを言うとしか受け止められない。

 デッサンなどやれば、大事なものが失われると本気で考えている。絵画に練習というようなものはない。すべて本番である。私は中学生の時にピカソの足を描いたデッサンを見て、この程度ならすぐ描けるとやってみた。世田谷学園の美術室には足の石膏像があった。デッサンの最初の経験である。自分では子供ピカソと同じ年齢で、同じ程度には描けると正直思ったのだ。

 ボタニカルアートで洋蘭を頼まれて描いたことがある。そう難しいことではない。絵を描いていれば練習などしないでもその程度のことは出来なければと思う。安野光雅流とか、いわさきちひろ流だって、やれないことは無い。ただそういうことは私の制作ではない。

 以前、イタリアの現代作家の絵を模写して自分の絵として発表していた人がいた。この人は珍しい人の珍しい絵を真似たので、盗作作家の烙印が押された。有名作家の富士山や薔薇を真似て描いていれば、盗作とは言われない。そもそも日本では絵とはそういう物なのだ。何とか先生張りの薔薇の絵はいくらでもある。またそういう絵が売れ来たわけだ。

 では私の絵は真似ではないといえるのかと言うことだ。創作には未だになっていないことは確かだ。直接誰かの絵を真似ていることは無いつもりだが、どこかですり込まれた誰かが作り出した方法を真似ているのではないかと言えないことは無い。

 どうやって創作に至れるかである。自分の眼が見ている顔を描けるかである。見ている顔は絵のようでは無い。ゴッホの描いた自画像、レンブラントの自画像、そのような顔では無い。鏡に映る私は、私の心を含んだ顔である。そ言う顔である事を知っているから、見えている顔をどう描けば良いのか分からなくなる。

 このよく分からないという曖昧さを描けるのが絵なのではないかと思っている。曖昧さの曖昧さ加減を探り続けているというか、結論など無いのかもしれない。こうかもしれない、ああかもしれない。このどうしようも出来ないものをそのまま描くほか無い。

Related Images:

 - 水彩画