水彩人出品作展示

1、作品名 ニラカナイの海 大きさ中盤全紙 NIRAKANAI

2、作品名 南アルプス 大きさ中盤全紙 S・ALPS

3、作品名 宮良川 大きさ中盤全紙 MIYARARIVER

4、作品名 北アルプス 大きさ中盤全紙 N・ALPS
石垣島に越してからの、第一段階の作品の結論のつもりである。ここを一区切りにして次に進みたいと考えて今回水彩人に出品した。前回までの水彩人ではいかに過去の自分を克服できるかという努力だった。
観念としてこびりついた絵画というものから、無垢の自分が生み出すことが可能な絵画という物へ進めるかという事だった。それには自分の描いている絵からいかに抜け出すかが課題だった。その一つが、石垣島に制作場所を変えるという事でもあった。
人間が変わることは難しい。あらゆる角度から次の自分に脱皮したいと考えた。そして、水彩画という物を先入観なしにその可能性に向き合うつもりで、この2年、徐々に少しでも自分のものであると言えるものを探してきた。
いまだ程遠いい道である。到底できたとは言い難いことは認めざる得ない。ただ、自分なりにやっと始まりまで来た感がある。ここからいよいよ始めるつもりである。どれほどつまらないものであろうとも、これから描く絵は自分の描いたものだという、気持ちで描いてゆく。
これからの10年、自分の絵だと言い切って終われるようにやってみるつもりだ。自分自分という事を繰り返しているが、それは自分という物を超えるというつもりなのだ。とことん自分という物の底まで進めば、人間というものに至ると考えている。
おかしなことだが、人間に至るためには自分という人間を突き詰める以外にない。自分という個別性を見極めるという事は、人間という共通性に繋がる。むしろ、その方法以外に人間に至る方法はないと考えている。ゴッホの絵は極めてゴッホ的な個人のものであるが、そのことが人間というものの本質を表すことになっている。
今回は上野の美術館まで、来てもらうことは無理かと思っている。だから、自分自身が自分の絵を見るための展覧会である。じっくり絵を見ようと考えている。今日一日絵を見る日に当てた。それがこのコロナ状況では私の精一杯のことである。
そもそも展覧会をやってよいのかどうかも分からない。今見てもらうことの意味はどこにあるのだろうか。私の絵がこのコロナ蔓延時代のそれにふさわしいものであるのだろうか。この時代を反映しているものであるのだろうか。
石垣島のアトリエカーに籠って描いた絵である。毎日1枚は描いた。描かずとは居られなかった。他にやることも出来ない環境だから、絵を描くばかりになった。わき目も降らずとなったのはコロナのお陰であるに違いない。辛い嫌な日々が続いたわけだが、妙な状況になった。
絵は本来制作者はいらない。作者不明。詠み人知らずが一番良い。絵は絵として、生きる人間に意味があるかどうかのものだ。飛鳥の古墳壁画は描いた人のことは分からないが、絵として存在している。良い絵というものは人間を変える。
音楽にはクラシックというジャンルがある。クラシック演奏者という、アーチストと呼ばれる人がいる。そのアーチストは誰かが制作したものの複製だけをしているのだが、複製の仕方にその人の表現を託している。日本の伝統絵画は、複製制作者に近いものだったのだろう。
宗達が創作者であれば、宗達複製者が日本画のアーチストであるとされてきた。それはレコードという物が出来て、音楽も記録が出来るようになり、クラシック演奏者はアーチストとしていつまでも存在するのかどうか。
絵画もかならず、正確に再現されたレコードが出来る。その時を想定すれば、作品と言えるものはすべて詠み人知らずで成り立つことが良いと思っている。芸術作品は人類が共通の宝だと思う。これからは新しい時代の絵画の位置づけが起こると思う。
ただ、正確な記録が残されていれば、将来はバーチャルリアリティー映像で、見ることが出来るようになるのだろう。何が人間にとって意味あるものなのかは、未来の視点からしか考えることはできないはずだ。果たして自分の絵画という物はどういう意味があるのだろうか。
ともかく今は自分という物をやり尽くしてみたい。まだこれからだと思っている。今回の水彩人展は不思議なものになる訳だが、私自身が学ぶ場としてはとても重要になるに違いない。あの時が出発点であったと思えるつもりで、水彩人展を見たいと思っている。