『百姓の百の声』映画が出来た。

   



 『百姓の百の声』監督柴田 昌平。農文協がはじめから推している作品である。現代農業では何度か紹介されていた。本当の百姓を表現しようという作品である。百姓はいまや差別用語として、使ってはならない言葉に位置づけられている。それほど百姓という物は情けないものだと、現代社会は卑怯な態度で位置づけている。

 しかし、宮沢賢治のユートピア「イーハトーブ」にあるように百姓の世界は夢のある豊かなものなのだ。百姓は自然と向き合う、哲学者なのかもしれない。そして世界を思考する実践家でもある。さらに自然分野の科学者でなくてはならない。そして明日の世界を作り出している創造者となる。

 こういう私のような楽観的な考え方を、柴田昌平監督は一方にある農業ユートピア思想としている。そしてもう一方に、農業問題化論が存在しているとする。その2極化は、沖縄の構造と同じだというのだ。南国のユートピア沖縄。同時に基地の島沖縄という問題化。監督は沖縄にいた人だ。

 日々の作物に向かい合う暮らしを通して、百姓は命と向かい合う。種を蒔けば芽が出る。命が芽生える。芽生えた植物はが実りを迎えるように、百姓は日々命を見つめ続け、手をかけて行く。その暮らしから百姓が学ぶものは、宗教とも哲学ともいえる世界の摂理を見つめ続けることになるのだろう。
 
 百姓に生きることは、人間を生きると言うことになる。人間がどう生きれば良いかは、自然と向かい合うことで見つかるものだ。自然と言う人間を生み出した物は、人間のまっとうな在り方を示してくれている。必要以上にむさぼってはならないと言うことを教えているように見える。

 農地の生命は長い。上手く利用すれば、永遠に人間が生かして貰えるものだ。この点近代的な工場農業とは違う。どれほど最先端な農業工場が出来たとしてもその耐用年数はは、せいぜい30年くらいのものだろう。原発のように耐用年数が過ぎても使い続けたとしても、50年すれば陳腐化する。

 東アジアでは4000年と言う長い期間、同じ農地が使われ続けている。この先4000年も問題なく使えるだろう。その農地は自然のままに置かれていたよりも、農耕を行うことで素晴らしい土壌になっているだろう。人間が生きていく場として農地はある。農地があると言うよりも、大地があるのだろう。人間はこの大地に百姓として生きてきた動物に一つだ。

 自然と人間が折り合いを付けたものが農地である。その折り合いを積み上げているのが百姓である。正しい折り合いを日々探している。毎日間違い、毎日修正し、完全とはいえないまでも何とか作物の収穫まで到達する。この農業によって、百姓が出来上がって行く。

 百姓は信念がなければ続けられない。何があるか分からない収穫までの未来を、どこかで疑いながら、どこかで信じて、日々の労働を続けなければ成らない。毎年の試練である。試練を越えて生きるためには信念がいる。この日本の社会で生き残っている百姓はみんなスーパーマンなのだ。

 もちろん私などは百姓とは到底いえない。自給農業者などと甘えて生きてきた人間である。百姓の一番の危機は、アパート経営である。農協不動産のセールスマンは、儲かるから是非とも建てろと回ってくる。そりゃー農業よりは儲かるだろう。農業がそう言う位なのだ。これが道を踏み外す第一歩である。

 原発事故以降、ソーラー発電業のセールスも来るようになった。百姓は減って行く。百姓だって日本経済の中に組み込まれているのだ。しかし、アパート経営の持ち出しで、百姓を続けているのでは、ちょっと違う。と言って百姓が仕事は研修生にお任せして、営業に走り回るのもかなり違う。百姓と共に生きなければならないのは、食べる人達だ。

 百姓はIT農業には登場しない。農業工場には百姓は探しても見つからない。百姓はいつも祈っている。明日雨よふれ。明日は晴れろ。百姓は願いばかりだ。百姓の願いはいつも裏切られる。百姓は辛いものだ。それでも百姓は少しもめげずに明るいものだ。明るいというのは脳天気と言うことだろうが、そのようにいられるのは、日々の試練の先に、それなりの実りがあると言う体験の積み重ねだ。

 柴田昌平監督は学生の時代に実習で芦川村に入り、その後通い続けている。芦川村は私の育った境川村とはお隣の村だ。1955年から60年頃になるが、芦川村には何度か行ったことがある。宿を兼ねた小さな商店が一軒だけあった。その向かいの家に母の弟のおじさんが住んでいた。

 その頃はまだ車は行けない村だった。鶯宿峠を越えて歩いて行ったのだ。その山奥のさらに山奥に芦川村はあったのだが、大きな川のある意外にきれいな村であった。そのように感じたのは向昌院があった藤垈の方がはるかに貧しい村だったからだと思う。

 叔父は芦川小中校の教師だった。芦川で一番驚いたことはみんなが優しいいい人達であったことだ。それは、隣の部落であるにもかかわらず、私の生まれた藤垈の集落は少しくらい、息苦しい空気の部落だったからだろう。自給自足で暮らしている日本の明るい山村と言うものがそこにはあった。

 子供の時代に芦川村という伝統的な日本の暮らしを見届けることが出来たことは、幸運なことだった。学生の柴田監督が調査に入った時代はその30年後のことで、自動車で行けるようになっていたはずだ。それでも人間の素晴らしさに目が覚めたという。芦川村には優しい人間的人間の世界が続いてきたはずだ。

 ともかく優しい人達なのだ。どこからどこまでも優しいので、子供の私はすっかり鶯宿になついてしまった。おじさんは日曜ごとに戻っていたので、いつでも付いて行きたくなったのだ。一人で歩いて行ったこともあった。芦川で出来た遊び友達は馬で鶯宿峠を越えて向昌院を何度か訪ねてくれた。

 芦川村は決して貧しい村ではなかった。藤垈の人達がうらやんでいた豊かな村だったのだ。芦川で水力発電をして、お風呂も電気で沸かしていた。農業ではこんにゃくを栽培していた。こんにゃく以外はイノシシに食べられてしまうので、仕方なくこんにゃくを作った。そのこんにゃくが高く売れたもので、裕福な村になったのだ。こんにゃくでーじんと言われていた。

 その後村を取り囲むように堀を張り巡らした。堀から中にはイノシシが入れないようになっていた。夜になると橋を外してしまうのだ。一山越えた富士山で米軍の演習が始まってイノシシが芦川に逃げてきたと言われていた。その芦川村の名前はなつかしかった。

 『百姓の百の声』映画が出来た。11月5日にポレポレ東中野で上映される。是非見に行き、監督のお話も聞きたいものだが、その日には行くことが出来ない。いつか石垣島で上映会が出来ればと思うが、そういうことは可能なのだろうか。監督は沖縄とは縁が深い人だから、本島では上映会はあるだろうから、見逃さないようにしなければ。

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