絵画が行いであるとはどういうことか。

   



  絵のことをあれこれ考えている。引き続き 絵画は行いになったと考えていることや、行いについてさらに考えてみたい。と言って考えに当てがあるわけではないので、おかしな文章になりそうな気がするが。それでも絵が行いであると言うことから始まっているので。

 絵画はそれぞれの個人が生きる証を求めて、画面に記しているものである。絵画によって変化をし続ける人間存在を探すよすがにしようと言うことである。絵画は人間の変化の一断面を反映したものであることは、間違いがないだろう。

 只管打坐と道元禅師が言われたように、只管打画という意味ではないだろうか。何かを求めて座禅をするのではなく、座禅をするために座禅をする。これが道元禅師の一歩進めた生き方に対する考え。素晴らしい発想の転換だと思っている。

 絵を描くと言うことで良い絵ができると言うことが目的ではなく、描くという行為自体に意味を求める。何か結果を求めて、描くというのではなく、ただ描くために描く絵画。それが絵画が行いになったと言うことかもしれない。

 絵画することで生きる手応えを持つ。生きているという真相が描くという行為によって、明確になると言うことだろう。生きて変化し続ける自分を確認したいという思いがある。それは生まれてきて死んで行く人間。それを明確にするのが一つの目的だからだ。

 千日回峰行や座禅修行が何か結果を求めて行う行為や修行ではないように、絵画も結果を求める行為ではなくなった。自分の生き方として絵を描くと言うことになる。絵を描くという手応えが自分の生きるという手応えであればそれでいいと言うことだろう。

 行為に対して結果を求めない。行為そのものの充実に生きる。これが絵画が行為になるという意味なのだ。しかしそれは言うがやすし、行うはかたし。その行いの結果としての絵画は、行いの断面を見せているだろうと言うことになる。

 現状では自分の絵画が、行いと言いきれるまで徹底できているとも思えない。徹底したいともがいていると言うぐらいのことだ。たぶん死ぬまでそんなものかもしれない。しかし、今現在、絵を描くと言うことには日々の充実はある。もう少しやればとは思う。あがきかも知れないが、期待はある。

 絵はその点恐ろしいものだ。自分には何のごまかしもきかない。だめになればだめなのだ。本気の精一杯のものでなくなればすぐに分かる物だ。この絵という断面があれば、自分のひたすらさが量られることになる。生涯ひたすらに日々を生きるための、証として絵がある。

 これは只管打坐に生きることが出来ない情けなさなのかも知れない。情けないからと言って諦める訳にいかないのが、日々の自分のことである。自分なりのやり方で、自分なりの行いで、自分を見極めたいと言うことだ。

 これは大きくは間違いではないように思う。その行い意味を世間にも公開するという意味で、水彩画の日曜展示を始めた。日々一枚の絵を描いてその絵を展示する。ブログという便利なものがあるから、やろうと思えば誰にでも出来る方法である。

 良く出来た絵を見て貰おうという、日曜展示ではない。自分の行いとしてのその週に描いた絵を、ともかく展示すると言うことが主たる目的である。千日回峰行と同じことである。苦行ではなく楽行であるところが自分らしいと言うことになる。

 毎朝ブログを書くのは願掛けなのだが、日々の一枚は自分の生き方である。 これが生きがいと言っても良いのだろう。どんな言い訳を言おうが、絵はやはり正直である。そのままである。頑張っている絵もあるし、ダメな絵もある。だめも頑張りも、日々の一枚である。

 本来の行為というのは消えてしまうので、確認のしようがない。絵という結果が残る画面を、行いとして経過をたどりながらと言うことになる。絵を描くと言うことを行為にしたので、自分という人間の有り様や精進が見えるのではないかと言うことだ。

 人間はどこから来てどこに行くのかと思うが。日々の一枚がその日々の航跡になっているのではないか。上ったり落ち込んだり、様々な足跡が付けられている。足跡を残しながら、生きてみようと言うことだ。そうすれば自分という存在が見えてくるかも知れない。

 何故そうなったのかをもう一度書いておくと、人間の暮らしが多様化したと言うことである。藝術の背景になる共通項が失われたのだろう。表現として対象が細分化を続けて、今は対象を失いつつある実感がある。違うものには伝わらないものが絵画のようだ。

 この余りに頼りなく、社会的な反応が狂ってしまった絵画という分野に踏み込んでしまった以上。社会的な反応を目印にすると、大きな間違いをするだろう。だから自らの生き方として、行いとして絵画すると言うことを求めて行こうと考えている。

 その結果伝える表現という意味は手応えがない。絵がそうした表現に至っていないから手応えがないと言うことはある。しかし、社会全体を見渡しても今はそうした絵画がどこにもないというのが、私の考えである。そうである以上、自分なりの方法で絵と向かい合うほかない。
 
 

 

Related Images:

おすすめ記事

 - 水彩画